散文23『本屋』
仕事の休憩中、久しぶりに買った小説を読んでいるとハトソン君が声を掛けてきた。
「センパイ、何を読んでるんですか?」
「あぁ、これか。この前、本屋に行ってジャケ買いしてしまったんだ」
そう言って私は読んでいたページに栞を挿み、本を閉じた。
「これだよ」
表紙を見せるとハトソン君は「あぁ、ちょっと前に本屋大賞か何かを獲ったやつですね」と言いながら本に顔を近づけた。
「そうだったのか、知らなかった。とりあえず本を読みたくなって、平積みされている中からインスピレーションで選んでみたんだが、なかなか面白いよ」
私は本を机に置き、コーヒーを一口飲んだ。
「ハトソン君は小説とか読むのかい?」
「それほど多くは読みませんが、人並みには」
「ほぉ。人並みにねぇ」
はたしてハトソン君の言う“人並み”とはどの次元の人を指すのか少々気になったが、これ以上突っ込むのはやめた。
「しかし、センパイが会社でそういった本を読んでいるなんて珍しいですね。もともと読書家なんですか?」
「いや、私も読書家というほどは読まないが、休日なんかは部屋で一日中本を読んでいるなんて日も無くはないな。どちらかと言うと、まとまった時間に一気に読みたい派なんだよ。だから会社の休憩時間に細々読むのは元来性には合わないんだが」
「それでも読みたくなるほど面白い、ということですか?」
「まぁ、そんなところかな。お盆休み中に地元の図書館に行って、久しぶりに古臭い紙とインクの匂いに触れたせいか、読書欲が掻き立てられてしまってね」
「なるほど、分かります。ああいう場所って、何か衝動を掻き立てられたりします」
「ハトソン君も分かるかい?」
「はい。いろいろな知識や情報の塊ですからね、あの場所は。ワクワクします」
何となく、その場所で目を輝かせて本を開くハトソン君の姿が浮かんだ気がした。今はこんなところで私と一緒に働いているが、図書館の司書とか似合いそうだ。
「あ、本の話で思い出しましたが…」
私がカウンターで佇むハトソン君を想像していると、ハトソン君は何かを思い出したようだ。
「センパイは『青木まりこ現象』をご存じですか?」
何を言い出すかと思えば、なんとセンセーショナルな現象であろう。無論、今までの人生で初めて聞いた単語である。
「いや、詳しく聞こうか」
「はい。先輩は本屋に行くと便意を催すタイプですか?」
「いや、特にそういったことは無いが、そういう現象があることは聞いたことがある」
「実は本屋に行くと便意を催すことを『青木まりこ現象』というんです」
なんと、その現象にそんな名称が付いていたとは。
「発端は1985年。とある雑誌に青木まりこさんという方から『私は本屋に行くと便意を催します』という投稿があったことがキッカケらしいです。その投稿が共感を集め、反響を呼んで、その現象に投稿者の名前が付いたとか」
「なんとも、その現象に自分の名前が付くというのは複雑だな。正式な病名や薬に名前が付くならまだしも、便意を催す現象だからな。ご本人がどう思っていたかは知らないが」
「そうですね。今の時代なら、SNSでバズりまくりでしょうね」
「目立ちたがり屋だったらそのままメディアデビューもし兼ねんな」
勝手に青木まりこさんへの同情の念を抱いていると、ハトソン君がアゴに手を当てた。さながら何処ぞやの文豪のようである。
「今からでも、当たり前のような現象でも自らが改めて発信すれば、自分の名前を付けられたりするんじゃないでしょうか?」
なんとも冒険的な発想である。
「ほぅ、例えば?」
ハトソン君はそのままのポーズで熟考したのち、私の目を見て口を開いた。
「例えば、新しいメガネを求めて行ったのに結局同じメガネを買ってしまうこととか…」
「いや、そんな現象に自分の名前を付けられたくない」
「それでは、ちょっと可愛い女性に『その楽器似合いそう』と言われて、ついついその楽器を始めてみようかと思ってしまうこととか…」
「いや、それもちょっと恥ずかしい」
その時ちょうど、休憩の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「さ、仕事に戻りましょう」
ハトソン君はスパッと切り替えて机に向かい直した。
その姿を何んとなしに見ていた私は、そこでハッと気付いた。先日クラリネットを始めたいとハトソン君に話した時に、会話中に感じた違和感。そうだ、私はメガネ屋の店員が女性であったことは伏せて話していたはず。それなのに何故かハトソン君は女性と言い切っていた。何故そのことをハトソン君が知っているのだ?
「ちょっ、なんでハトソン君が…」と言いかけた時、ハトソン君は手を止めこちらを向いた。そして私の言いたいことを見透かすような眼をして「センパイ、今は業務中ですから」と言った。
言った瞬間、口角が僅かに上がったことを私は見逃さなかった。
もしかしたらハトソン君の思い込みで女性と言っただけかも知れないが… ともあれ今の表情。どうやらハトソン君は、私の知らない何かを隠しているようである。