散文30『睡眠不足』
今日は久々に仕事でミスをしてしまった。今回は大した事ではなかったが、場合によっては一つのミスで大損害を出し兼ねない。気を引き締めなければ。
「いやぁ、さっきはフォロー助かったよ」
「いえ、大したことないっすよ。あれくらい」
私はお礼とばかりに渡瀬の机の上に缶コーヒーを置いた。
「あざっす。しかし珍しいっすね。先輩があんなミスするなんて」
「まぁな。ちょっと最近睡眠不足が続いててな」
私は空いていた隣の椅子に腰を下ろした。
「なんすか、悩みごとですか?」
「いやいや、そんなんじゃないよ。最近部屋に帰ってからの間食やら晩酌を控えようと思ってな、気を紛らわせようと音楽を聴いたり読書して過ごしていたんだが」
「ダイエットですか?」
「あぁ、そんなところだ。しかし音楽も聴き始めると芋づる式に次々と聴きたい曲が出てきて、気が付いたらあっという間に時間が過ぎていってな。そんな日がここ数日続いていたんだ」
「なるほど、分かりますよ。懐かしい曲とか聴き出すと止まらないんすよね」
「だからと言ってそれを言い訳にも出来ないんだがな。今回の件で改めようと思うよ」
私は缶コーヒーを開けて一口飲んだ。
「ところで渡瀬は毎日何時間くらい寝てるんだ?」
同じく缶コーヒーを開けながら渡瀬は答えた。
「俺っすか? そうですね、大体6~7時間くらいは寝るようにしてますかね。12時前にはベッドに入るようにしてますね」
「案外きちんと寝てるんだな。夜遅くまで起きてそうな感じがあるが」
「なんすか、偏見ですねぇ。結構マジメなんすよ、俺。睡眠不足だと顔に出るじゃないすか。そんな顔でお客さんの前に出るわけにもいきませんし。それに、世の中の多くの著名人はしっかり睡眠時間を取っているそうですよ」
見た目や言動はいかにも20代の若者だが、考え方はしっかりしている。こういうところは先輩である私も刺激を受ける。
「確かに、寝不足では良いパフォーマンスが出来ない、と誰かが言っていた気がするな」
そう言うと、渡瀬は口元に手を当て、顔を近づけてきた。
「それに、睡眠不足だと肥満になりやすくなるらしいっすよ」
その声量は明らかに周りに聞こえないように配慮されたものだった。私は思わず、最近出始めた自分の腹を擦った。
「まさか、そんなに目立つか?」
渡瀬は体を起こし「いえいえ、大丈夫っす」と手を横に振った。私はホッと胸を撫でおろした。
「そうか。しかし、気を付けないとな」
間食を控えてダイエットしようとしているのに、それが起因で結局肥満になってしまっては元も子もない。食事に加えて生活習慣も気を付けなければ。
「えぇ。気を付けないと、隣のすずちゃんなんか結構ハッキリ物言うじゃないですか。『センパイ最近太りましたね』なんて言われたらショックっすよ」
「確かに、ストレートパンチほど効くものは無いな」
ハトソン君がそんなことを言う表情まで思い浮かべることが出来る。精神的ダメージはデカいであろう。想像するだけで十分な抑止力だ。
「よし、私も12時には寝ることにしよう」
机に戻ると、ちょうどハトソン君が振り向いた。
「ん、どうした?」
「そう言えば最近センパイ…」
私の鼓動は一気に早まった。まさか、あの言葉を放つのではなかろうか。先ほど想像した情景がまさに目の前に起ころうとして…
「もしかして寝不足ですか?」
「え、あぁ。寝不足か、あぁそうなんだ。最近ちょっとな」
私は慌てて平静を装った。なんだ、寝不足のことか。
「なんだか顔も疲れているように見えますし」
「いやなに、大したことではない。ちょっと夜更かしが過ぎてしまってな。今日から気を付けようと、今渡瀬と話していたばかりなんだ」
と言いながら、私は気持ち少しだけ腹を凹ませた。
「そうでしたか。それならいいんですが」
「おや、もしかして私を気にしてくれているのかな?」
「いえ、そんなんじゃありません。ただ、センパイに何かあってはいろいろと困ることはあるので」
「それを心配というんじゃないか」
「それなら、そうですね」
なんとも不器用だが、私のことを心配してくれるなんて案外可愛いところがあるではないか。
「いやいや、すまない。本当に大丈夫だ」
「分かりました」
ハトソン君に迷惑をかけるようでは私もまだまだだな。
私は席について一つ大きく深呼吸をした。そして改めて気を引き締め直そうと、両手で頬をパシッと叩いた。思いのほか大きな音が出て、隣のハトソン君が振り向いたが、今度は何も言わずにまた元の姿勢に戻った。