夜がな夜っぴて考え事…

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散文46『魔女の笑顔』

 私は『BAR SATIE』の前に立っていた。去年の十一月に来たっきり、約二か月ぶりである。本当はその間にも何度も来ようと思ったのだが、あの一件以来、もしかしてあの人が居るかも知れないと思うと、どうにも足が向かなかった。

 今日はようやく店の前までやってきたが、やはりドアに手を伸ばすのに躊躇っていた。中の様子を窺おうにも、擦りガラスから分かるのは、灯りが点いているかどうかぐらいである。

 しばらくドアの前で逡巡していると、ドアノブがゆっくりと回転した。

 私は驚き、一歩後ろへ下がった。すると、そこから顔を覗かせたのは、店のマスターだった。

「あら、お久しぶり」

 相変わらず妖艶な雰囲気を漂わせているマスターは、上目遣いで私を見た。間近で見ても、やはり男性か女性か判別がつかない。

「お久しぶりです」

「どうぞどうぞ」

 そう言って、マスターは扉を大きく開けた。もはやここまで来ては入らざるを得まい。私は勇気を出して一歩を踏み出した。

 店の中に入ると、案の定あの人の姿があった。いつもと同じ場所で、いつもと同じ姿勢で、いつも通りカクテルが入ったグラスを眺めていた。

 私は気付かぬふりをして、前回同様、入り口のすぐ傍の席に座った。しかし、狭い店の中である。双方気付かないわけがない。私がコートを脱ごうとした瞬間、彼女の方から声を掛けてきた。

「あら、東雲さんじゃない」

 自分の名前を呼ばれ一瞬動揺してしまったが、私は平静を装い、ハンガーにコートを掛けながら会釈した。

「あ、どうも」

 何と答えたらいいか分からず、そんな言葉しか出てこなかった。

 魔女と会うのも、約一か月半ぶり。しかも、マスターの古希祝いの席で会った時以来である。あの後、話し合いの末、『喫茶ネロ』は環くんが引き継ぐことになったらしいが、魔女の心情を知らぬまま彼女と会うことは避けたかった。しかし、図らずもこのような事態となってしまった。

「この間はなんか悪かったね。せっかくの祝いの席で恥ずかしいところ見せちゃって」

「あ、いえ」

「なんやかんやであの店、タマキンが引き継ぐことになったから。これからもよろしくね」

「はい。それは、環くんから聞きました」

「そっか」

 意外にもあっさり魔女の口からあの話を切り出されて驚いた。もう少し拗(こじ)れているのかと思っていたが、案外そうでもないらしい。

「意外とあっさりしてるって思った?」

「え、いや。そんなことは別に」

 私は手を振って否定したが、まるで心を見透かされたかのような発言に、ドキッとしてしまった。

「まぁ、私の願いはあの店を続けさせることだったから、結果オーライって感じ。引き継いだのがタマキンなら、なおさら良い結果だったと思う」

「それは、同感です」

「私は私で、父親に言われた通り、今の店をもっと良い店にしなくちゃって思ってるよ。あの人に『参った』って言わせるくらいね」

 そこで魔女は優しい手付きでカクテルを口元に運んだ。

「きっと、出来ますよ」

「ありがとう」

 魔女はニコリと笑った。

「って、こういう話を聞きたかったんじゃないの?」

「え?」

「ずっと気を使ってたんでしょ? この店に全然来なくて、マスターと二人で『寂しいね』って言ってたんだから。ねぇ、マスター?」

「そうね。もしかしてって思って扉を開けたら居たからビックリ」

 マスターはグラスを拭きながら、肩をすくめて言った。

「そんな、別にそういうわけでは。年末年始で仕事も忙しくて…」

「ホント? まぁ別にいいんだけど。今言ったことは本当だし、私もちょっと後味悪かったなあって思ってたから、今日来てもらって良かった」

「いえ、黒部さんも元気そうでよかったです」

「ミナでいいよ。あんたとはこれからも付き合い続きそうだから」

「はぁ…」

「そういえば、東雲さんの下の名前は? この前、タマキンに苗字しか聞いてなくてさ」

「中(あたる)ですけど」

「それじゃあ、あたる。これからもよろしく」

 矢継ぎ早に会話が進んで、結果呼び捨てである。

 どうやら私の心配は取り越し苦労に終わったようだ。ともあれ良かった。これで気兼ねすることなく、これからもこの店に来ることが出来る。と同時に、今後もこの人との付き合いも続いていくのかと思うと何故かドッと疲れが襲ってきたことは魔女に悟られてはいけない、と私は姿勢を正した。

「ところで、あんたはオレンジ好き?」

「オレンジですか?」

「今度バレンタイン用に新作出そうと思っててさ」

「あぁ、そういうことですか。好きですよ、オレンジ」

「それじゃ楽しみにしててよ。ネロでも出してもらうからさ」

 魔女はそう言うと、親指を立ててニカッと笑った。その笑顔はまるで、純粋にケーキ作りを楽しむ少女のようであった。この人の手からなら、魔法が掛かったようなケーキが生まれるのも納得出来る。

「分かりました。楽しみにしてます」

 私はお返しとばかりに、親指を立てて笑顔で答えた。