夜がな夜っぴて考え事…

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散文NEO-14『コミュニケーションツール』

 私は今年の春から職場環境が変わった身である。とはいえ元の職場から離れたものの、同じ会社の所属であることには変わりないので、今でも時々前職場に顔を出すことがある。

 その度によく掛けられる言葉として「向こうでも元気にやってるか」というものがある。無論、社交辞令というか、何の意図もない挨拶程度の言葉であるが、私はいつもこの言葉の返しに頭を悩ませているのである。

 何故ならば、私は相変わらずの健康体であるからである。もちろん健康であることに越したことはない。健康体であることに不満はない。むしろ感謝である。しかしながら、社会人たるものコミュニケーションもうまく取りたいものである。それ故に、そう言ったときにうまい言葉で返したいと思うもの社会人としての性であろう。一病息災という言葉があるが、一病あれば健康に気を配ることに留まらずコミュニケーションすらも促してくれるのだから、少々の病気なら持っていても良いのかも知れないとさえ思ってしまう。

 そんな私の悩みなんてお構いなしに、後ろから声を掛けてきた者がいた。

「先輩、お久しぶりっすね。お元気でしたか?」

 振り返ると、こちらも相変わらず元気な後輩・渡瀬である。

「おお、久しぶりだな。元気だよ。お前も元気そうだな」

「はい、元気ですね。お変わりないようで何よりです」

 そして会話は一旦ここで途切れるのである。ここで「いやぁ、どこどこの調子が悪くて…」と言おうものなら、そこから会話も弾むことであろう。

 今日はこちらでの打ち合わせがあることは渡瀬も承知の上なので、「今日はどうしたんですか?」などというやり取りも不要である。

「やはり、病気の一つでも罹っておいたほうが良いのかも知れないな」と突拍子もなく言うと、渡瀬は案の定、頭上にクエスチョンマークを浮かべ首を傾げた。

 私はかくかくしかじか説明した。

「なるほど、そういうことですか。確かにそれはあるかも知れませんね」

 渡瀬は理解のある男である。

「だろう。健康は素晴らしいことであるが、時に面白みに欠けることもある」

「贅沢な悩みですね」

 私は大きく頷いた。

「それじゃ、むしろ健康なことをネタに出来るように、健康オタクになってみるとかどうですか?」

 渡瀬は意外な提案をしてきた。

「例えば、最近こんなことやってるんですよー とか、こういうの買ってみたら体の調子がよくてー とか、それをネタにしちゃうとか」

「なるほど、自分の強みを活かすわけだな。ビジネスの基本でもある」

 確かに渡瀬の言う通り、そういう手もあるなと感心した。

「実際には何も特別やってはいないが、これからの年齢のことも考えて、何かに頼るのも悪くない。それが話のネタになるなら健康とネタ作りで一石二鳥というわけだ」

「そうです。病気だとか体が痛いとか、そんなネガティブな話じゃなくてポジティブな話で盛り上がりましょうよ」

 渡瀬の言う通りである。やはり彼には何かしら刺激を受けることが多い。感謝である。

「ではこれから三階で打ち合わせなんだが、健康のために階段を一段飛ばしで行ってみるか」

 私は意気揚々と歩を進め、階段に近づいて行った。

「あまり調子にならないほうが良いですよー」

 渡瀬の言葉を背中で受けながら、私は軽快に一段飛ばしで階段を駆け上った。

 しかし、その瞬間は突然訪れた。順調に階段を上っていった私であったが、いざ踊り場に差し掛かろうとしたところで段に足を引っかけ転んでしまったのである。

 私は膝を強打しながら踊り場に滑り込んだ。慌てて駆け寄ってくる渡瀬の足音が聞こえる。

「大丈夫ですか?!」

 私はゆっくり体を起こし、壁にもたれながら膝を擦った。

「いやいや、やってしまった」

「だから調子に乗らないほうがいいって」

「ハハハ、怪我も一病に入るのだろうか? しかし、これでひとネタにはなったかもな」

 私は苦し紛れに呟いた。

「いやいや… それは…」

 渡瀬はあきれた様子だった。無理もない。調子に乗るなと忠告した先輩が目の前で年甲斐もなく転んだのだから。

 渡瀬も苦笑せざるを得まい。

 やはり健康が一番であると、私はその時痛感したのである。まさに膝の痛みに耐えながら…