『今日という一日』⑤
‐佑子‐
今日は貴耶と久しぶりのデート。私は朝から気分が良かった。デートは彼の仕事が終わってからの約束だったから、日中は時間がある。どうやって時間を潰そうかと思考を巡らせていると、美吉の顔が頭に浮かんできた。
「そうだ、美吉とお茶でもしよう」
そう思い立って、すぐに携帯電話を手に取り、美吉に電話を掛けた。暫くコールが鳴った後、電話の向こうから美吉の声が聞こえてきた。
「何? こんなに早く」
あからさまな寝起きの声に気怠そうな雰囲気を纏ったその言葉は、今の私とは全く真逆のテンションだった。
「こんなに早くって、もうそろそろお昼だよ」
「まだ午前中じゃん」
「こんな時間まで寝てたら一日損するよ!」
「損どころか、私は有意義な時間を過ごしてたんだけど」
まったく、屁理屈ばっかり。
「そんなこと言ってないで。ねぇ、一緒にお茶しようよ」
私の急な誘いに、美吉は電話の向こうで「うーん」と中途半端な返事をしてきた。
「もしかして、今日何か予定でもあった?」
「夕方から幸祐との約束はあるけど」
それは都合がいい。私はこのまま勢いで美吉を丸めこもうと考えた。
「お、丁度いいじゃん。私も貴耶と夜ご飯食べる約束してあるから、それまで一緒にお茶しよう」
「えー、もう少し寝てたいんだけど…」
「寝てばっかりだと顔むくむよ! 幸祐君とデートなんでしょ。それじゃあ、いつものカフェで。私は今からちょっと仙台に寄っていくから… うん。二時に待ち合わせね。よろしくー」
私は美吉に言葉を返す余裕も与えず、そのまま電話を切った。まぁ、本当にダメなら後から連絡が来るでしょ。
私はとりあえず出掛ける準備を始めた。
準備を済ませ部屋を出ると風が少し冷たかった。風の勢いも昨日よりも強く、日に日に冬の様相を呈している。今日も彼はこの寒空の下で一生懸命働いているのだろう。そう考えると、いつも以上に彼のことが愛おしくなってくる。今晩は鍋料理のお店にしようかな。温かい鍋で彼を労ってあげよう。
美吉との待ち合わせのカフェは地下鉄北四番丁を降りて少し歩いたところにある。私のアパートからはちょっと遠いが、私も美吉もそのお店の雰囲気が好きで、よく二人で会う時は一緒にご飯を食べたりお茶したりしていた。
私は約束の時間まで仙台駅の辺りをぶらつこうと、地下鉄の蓮坊駅に向かった。時間に余裕があれば、仙台駅からお店まで歩いて行ってもいいかな。
仙台では小物入れを探そうと思っていた。最近買ったこのポーチに似合う小物入れ。何となくイメージはあるけど、しっくりくるのがあるといいな。
地下鉄のホームで電車を待っていると、生暖かい風に遅れて電車が入ってきた。
「うわぁ、人がいっぱい」
車内は移動が容易に出来そうにないくらいに混んでいた。今日が土曜日ということと、恐らく今日は野球の試合もあるのだろう。クリムゾンレッドの帽子を被った人たちも見える。私はどうにか人の間を縫って移動し、中ほどの吊革に掴まった。もしかしたら座れるかも、なんて思ってたけど残念。しょぼぼん…
南北線に揺られ、ほどなくして電車は仙台駅に着いた。社内のアナウンスが間もなく仙台駅に到着することを告げると、電車がホームに止まり切る前から人々が出入り口付近に移動する。電車がホームに着き、ゆっくりとドアが開くと、人々は一つの流体のように隊を成して電車からホームに降り始めた。私もそれに抗うことなく、人の波に乗ったままホームに降りた。
私は上りエスカレーターの列に並んだ。前後を人に挟まれ、小刻みに歩を進めながらエスカレーターに乗り、右側を歩いて上っていく人々を気にしながらエスカレーターを上り切るとようやくそこで人の波がばらけた。とはいえ、まだ自分の歩きたいペースでは進めないほどの人がいる。私はもどかしい気持ちで最良のルートを模索した。
壁際にルートを取り歩いていると、私の視界に、キョロキョロと辺りを見渡す女の子の姿が入ってきた。彼女の目線は低く、何かを探しているように見えた。
私はそのままその女の子に近づき、声を掛けた。
「どうしたの?」
その女の子は私の声に気付き、私の顔を見上げた。そして私の目をしっかりと見て「モモちゃん」とだけ言った。私が首をかしげると「ウサギさんのぬいぐるみなの」と言ってまた辺りを見渡し始めた。
女の子から目線を上げると、すぐ側で同じ動きをする女性と男性の姿もあった。おそらくご両親かな。母親らしき女性が私に気付き「すみません。落し物なんです」と言うと、女の子は「物じゃないもん」と反論した。
「どんな子なの? そのウサギさん」
「ピンク色のね、これくらいの」
女の子は体の前で、小さな手を使ってその大きさを表現した。
「ピンク色だからモモちゃんか」
私はそう呟き、女の子からの情報を元に辺りを見渡した。
すると、母親らしき女性が「すみません」とまた声を掛けてきた。どうやら家族で出掛けていて、ここまで来る途中、リュックに付けていたぬいぐるみを落としてしまったらしい。電車内ではまだ付いていたということだから、降りてからここまで来る途中で落としてしまったようだ。もともと時間には余裕があったから、私は「手伝いますよ」と言って一緒にそのぬいぐるみを探すことにした。
しかし、通路内は電車から降りてきた人たちでまだ混雑していた。私は通行人の邪魔にならないようにそのまま壁に身を寄せ、そこから見える範囲で目を凝らして探したが、行き交う人々の隙間から探し出すのは大変だった。次第に人の数も少なくなっていったが、ぬいぐるみらしきものは見当たらなかった。
「もしかしたら、もっと前に落としてきたのかも知れない」
私がそう言うと、女の子は南北線ホームの方へと駆け出した。
「ちょっと待って」
私は慌ててその女の子を追いかけた。後ろのほうで母親が女の子の名前を呼ぶ声が聞こえたが、女の子から目を離すわけにはいかなかったので、私は振り返ることが出来なかった。
通路を曲がり、ホームへと降りるエスカレーターに差し掛かろうとしたところで、偶然ホームから上がってきた幸祐君とすれ違った。
「あれ、佑子ちゃん」
幸祐君は私に向かって手を振った。その瞬間、私は思わず声を出してしまった。
「ちょっと、それ!」
もうすでにエスカレーターに乗ってしまった私は引き返すことが出来ず、徐々に幸祐君との距離が離れていく。
「幸祐君、ちょっとそこで待ってて!」
私が何より驚いたのは、久しぶりに幸祐君と会ったことではない。私に向かって振ったその手に握られていたのが、まさしくピンク色のウサギのぬいぐるみだったからだ。
私はエスカレーターの先を行く女の子に向かって、先ほど母親が言っていた名前を呼んだ。
「七摘ちゃん、モモちゃんいたよ!」
七摘ちゃんはエスカレーターを駆け下りる足を止め、私のほうを振り向いた。
「どこ!?」
「危ない! 前見て!」
私の声に七摘ちゃんはまたクルリと前を向き直して、エスカレーターの最後で小さくジャンプした。
「ごめんね、急に声掛けちゃって」
ゆっくりと降りていく私を、七摘ちゃんは待ちきれない様子で迎えた。
「どこにいたの!?」
「今ね、上にいた。戻ろう」
私はまたエスカレーターを駆け上ろうとする七摘ちゃんの手をさっと掴んだ。
「大丈夫。上で待っててくれてるから」
「…うん」
七摘ちゃんをなだめつつエスカレーターを上がっていくと、そこには幸祐君と七摘ちゃんのご両親の姿があった。母親の手にはモモちゃんが握られていた。それに気付いた七摘ちゃんは手を伸ばし、母親からモモちゃんを受け取ると、そのままギュッと抱きしめた。
「モモちゃん、良かったぁ」
その姿を見て私はホッとした。たかがぬいぐるみとはいえ、七摘ちゃんにとっては大事な友達なんだ。私にも大事にしていたぬいぐるみがあったもん。
ご両親も安心した眼差しで七摘ちゃんを見ているようだった。私は隣で一緒に微笑む幸祐君に声を掛けた。
「ねぇ、なんで幸祐君があのぬいぐるみを持ってたの?」
「さっき電車を降りたところで拾ったんだ」
なるほど。たぶん七摘ちゃんが電車から降りた時に人とぶつかったりして、モモちゃんが落ちてしまったのだろう。
私はモモちゃんを抱きしめる七摘ちゃんに声を掛けた。
「良かったね、モモちゃんが見つかって」
「うん!」
七摘ちゃんの嬉しそうな表情に私まで嬉しい気持ちになった。
それを見ていた幸祐君は、何か思い付いたように「そうだ」と言って自分の財布を取り出した。そして財布に付けていたキーホルダーを外し、それをモモちゃんの腕に結わえた。
「どう? これならまた落としても気付くんじゃない?」
そのキーホルダーには鈴が付いていて、七摘ちゃんがモモちゃんを上下に揺らすと、その鈴はシャンシャンと音を立てた。
「本当だ。これなら分かる」
七摘ちゃんは嬉しそうに何度も鈴を鳴らした。
「良かった、喜んでもらえて」
「いいんですか?」と尋ねる母親に、幸祐君はニコニコしながら「大丈夫ですよ」と答えた。
「このヒヨコさんも可愛い」
「でしょ? お兄ちゃんのお気に入りだから大事にしてね」
「うん、ありがとう」
幸祐君はしゃがんで、七摘ちゃんの頭を撫でた。その表情はとても優しそうな笑顔だった。
別れ際、七摘ちゃんたちはこれから動物園に行くと言っていた。
「もう落とさないようにね」と言うと、七摘ちゃんは笑顔で返事をしてくれた。
両親に手を引かれ去っていく姿を見届け、私たちは仙台駅の改札口に向かった。
「まさかこんな形で幸祐君と会うなんてね。いつ振りだろう」
「二、三ヶ月振りくらいかな。美吉とはちょくちょく会ってたんでしょ?」
「会ってたよ」
「相変わらず仲が良いね」
「まぁね。そういえば、今日は夕方から美吉と待ち合わせじゃなかったっけ?」
「美吉から聞いてた?」
「うん。実は今から私、美吉と会うから。夕方からは幸祐君と予定があるって言ってた」
「そっか」
「仙台で時間潰し?」
「そうだね。部屋に居てもあれだから」
「ふーん」
「佑子ちゃんは仙台で降りるの? 今日はいつものお店じゃないの?」
「私も待ち合わせの前に仙台をぶらつこうと思ってね」
「そっか。それじゃあ、僕はこっちに行くわ」
「うん。じゃあ、ここで」
私たちは改札を出て、お互い手を振り別れた。
少し進んだところで振り返ると、歩き去る幸祐君の背中が見えた。久しぶりに会った幸祐君の背中はどこか小さく見えた。今日はデートだっていうのに、なんだか楽しみじゃなさそう。なんでだろう? 振り向き直って歩きながらいろんな想像を巡らせてみたが、私には分らなかった。だってデートっていったら、楽しみしかないもんね。
あーあ、早く貴耶に会いたいな♪