散文47『節分』
今年の節分は二月二日である。例年では二月三日が節分とされているが、二月二日が節分となるのは124年ぶりらしい。幼い頃は、節分で豆撒きすることを楽しみにしていたものである。
「豆撒きなんて、久しくやっていないな」
「そうですね。結婚して子供でもいれば、大人になってからも豆を撒くことはあるんでしょうけど」
そう言ってハトソン君は、少し冷めたお茶を一啜りした。
「確かにな。独身の私には無縁な行事となってしまった」
「元々は厄払いですから、一人でやってもいいんじゃないですか?」
「いやいや、そこまでしてやりたいわけではない」
静まり返った部屋で一人「鬼は外、福は内」と豆を撒く姿は、あまりにシュール過ぎる。
「まぁ後片付けも大変ですしね。撒いた豆を一粒一粒拾うのも骨が折れそうです」
その姿もあまりに不憫すぎる。
「ということで、無論一人豆撒きは願い下げなんだが。そういえば豆撒きをしていた頃は、殻のままの落花生を撒いていたな。それこそ拾いやすいように。ハトソン君の家はどうしていた?」
「私の家では、柿の種とピーナッツが入った小袋を撒いたこともありました。撒いた後、それを拾って家族で食べていましたね」
「なるほど。それも合理的だな」
「ですが、投げた衝撃で柿の種が粉々になるという難点がありました」
「確かに、それは食べるときに気を付けなければならない」
同じ行事といえども、やはり家庭によっていろいろあるものだ。
「しかし親の都合でピーナッツを撒いていましたが、本来なら撒く豆は大豆が正式なので、はたしてピーナッツで厄が祓えていたかは疑問が残ります」
未だに腑に落ちないといった顔でお茶を飲むハトソン君。「豆撒きに意味があるのか?」ということよりも「撒く豆が大豆じゃなくて大丈夫なのか?」というところに疑問を持つあたりが彼女らしい。
「そこは抗議しなかったのかい?」
「申し立てをしようかと思いましたが、“魔(ま)を滅(め)する”ということで豆を撒くそうなので、ピーナッツでも間違いではないのかと。そこは渋々折れることにしました」
「なるほど」
ハトソン君は小さい頃からいろいろ考えることが多くて大変だったんだな。と言っても、大概は自らが生み出した縛りであろうが。
「しかし小袋の場合、年齢の数だけ豆を食べるというルールはどうしていたんだ?」
「それについては特に縛られずに、各々好きなだけ食べていました」
そこは案外ルーズなんだな…
「センパイは年の数だけ食べていたんですか?」
「うむ、一応な。と言っても小学生くらいまでしか撒いていなかったからな、せいぜい十粒そこそこだ」
「偉いですね」
「いや、偉くは無いが… しかし、もし今豆撒きをしたら、私も40粒弱も豆を食わなければならないのか。なかなかの数だな」
「そうですね。私の1.5倍以上です。すごいですね」
何故かその表現に嫌味を感じたが、この場はスルーすることにした。
「40粒と考えると、それだけでお腹いっぱいになりそうだな」
「そうですか?」
「え? 多いだろう。大豆にしてもピーナッツにしても、40粒と言ったら結構な数じゃないか?」
「しかし、納豆で考えたら…」
ん? 納豆?
「大粒のパックで約150粒以上は入っているらしいですよ。もちろん商品によって違いはあると思いますが、それに比べたら、40粒なんて約1/4じゃないですか」
急に納豆が出てきて一瞬戸惑ったが、確かにそう例えられると、40粒も大したことが無いように思われる。
「そう言われると、食べられなくはないような気がするが…」
そこで私は「しかし、柔らかくなった納豆と、硬いままの大豆やピーナッツでは食べ応えが…」と思ったが、それを言ってしまうとこの話が拗(こじ)れていきそうな気がして、私は言葉をグッと飲み込んだのである。
「まぁ、現状そのような機会は予定にないから、その時になったらまた考えることにしよう」