散文45『雪』
会社の最寄り駅の改札を出ると、白い粒がゆらゆらと宙を舞っていた。
「雪か…」
今日は朝から冷え込んでいた。私はポケットから手を出し、手のひらに雪を乗せてみようと試みた。しかし、ポケットの中で温められていた手の温度で、雪はあっという間に解けてなくなってしまった。
「うーん」
そこで私は、コートの袖部分で雪をキャッチしようと試みた。
ゆっくりと落ちてくる雪を目で追いながら、私は何とか一粒の雪を捕らえることに成功した。今度は解ける前に見ようと、すぐさま腕に顔を近づけ、呼吸で雪が解けないよう息を止めながら凝視した。すると、黒地のコートに乗った雪は結晶の形を保ったまま数秒間そこに留まった。
それは綺麗な六角形をしていて、光が反射してキラキラと輝いて見えた。しかし、それもあっという間の出来事。雪の結晶は余韻に浸る間もなく一粒の水滴となってしまった。
「センパイ、おはようございます」
その声で振り返ると、ハトソン君の姿があった。
「あぁ、おはよう」
「こんなところで立ち止まって、どうしたんですか?」
「いやなに、雪の結晶が見れたもんでな、ついつい見惚れてしまったんだ」
「雪の結晶ですか。良いですね」
そう言って、ハトソン君は手袋を付けた手で雪を一粒捕らえた。
それをまじまじと見つめるハトソン君。きっと私も同じ仕草をしていたのであろう。傍から見れば、歩道で立ち止まって何をやっているんだと言われても仕方がない。
ハトソン君は黙って顔を上げた。
「綺麗ですね」
「だろう」
再び空を見上げたハトソン君の横顔は、少し微笑んでいるように見えた。まるで、降ってくる雪全てを捕まえたいと言い出す子供のような無邪気な表情である。雪の結晶が見られることはそう滅多にあることではない。それに対して、ハトソン君の反応は理解できることではあるが、その傍らで寒さが体に堪えてきた私は、ハトソン君に何とか歩を進めるよう促した。
「結晶はどんな形だった?」
「六角形の板みたいな形でした」
「六角形の板か。私も同じだったな。でも雪の結晶は一つとして同じものは無いと聞いたことがあったが」
「分子レベルで言えば、同じものは無いということみたいですよ」
「分子レベル?」
まさか、ハトソン君の知識が分子レベルにまで達していたとは…
「結晶の形は湿度や気温によって、ある程度分類化されているんです。ですから、同じ場所に振ってくる雪の結晶は大まかに言うと同じ形をしているんではないでしょうか。同じ“ような”と言ったほうがいいかも知れませんね」
「なるほど」
「逆に、結晶の形を見れば、空の気象状況が分かるそうです。ですので、気象条件によって形を変える雪の結晶を、とある先生は『天からの手紙』と表現したそうです」
「天からの手紙とは、なんともロマンティックな表現だな」
「そうですね」
信号待ちで立ち止まった私たちは二人揃って空を見上げた。相変わらず深々と降る雪の一つ一つが、見方を変えれば、空を知る手掛かりになる。たった1mm程度の雪の粒が、人によっては綺麗とも、面白いとも、はたまた恐ろしいとも感じさせる。しかし、それは事実のみ確実に伝えているのである。昨今の異常気象もまた、地球から人類に宛てての手紙、まさにメッセージなのかも知れない。それを我々人類は見て見ぬふりをして、ここまで来てしまったのだろう…
などと壮大な物思いに耽っていたら、それを遮るように信号が青になった。
「そう言えばハトソン君のマフラー、新しいやつかい?」
「これですか、そうですね」
その深紅のマフラーは、普段から黒やグレーのモノトーンで身を固めているハトソン君にしては、主張の強いカラーリングである。今日もコート他、身に付けているものがモノトーンであるため、一層目立って見える。
「変ですか?」
「いや、そんなことは無い。案外似合ってるぞ」
「そうですか… ありがとうございます」
ハトソン君はマフラーを上げ、口元を隠した。それは照れ隠しなのか、ただの寒さ凌ぎなのか、この場では判断し兼ねたが、そのマフラーに何かしらハトソン君の意志が込められているような気がしてならなかった。去年の年末の、環くんの一件もあったわけだから、彼女の中でも何か変化があったのかも知れない。もちろん、そのことに関して、私がとやかくツッコむわけにはいくまい。
「私も新しいマフラーでも買おうかな。何色がいいと思う?」
「そうですねぇ…」
ハトソン君が考え込んでいると、後ろから駆けてくる足音が聞こえてきた。
「先輩、おはようございまーす」
その声に振り向く前に、渡瀬は私の横に並んだ。
「すずちゃんも、おはよう」
「おはようございます」
「おはよう。朝から元気だな」
「まぁ、朝から辛気臭くってもしょうがないじゃないすか」
確かに、それはごもっともである。
「あ、この色」
そう言ってハトソン君は渡瀬を指さした。
「この色、似合うと思います」
「え? 何?」
「この色って、渡瀬とお揃いになってしまうじゃないか」
「え? 何がすか?」
「でも、似合うと思いますよ」
「ん?」
「それは要検討だな」
私とハトソン君の会話はそこで完結した。
「だから、何が?」
渡瀬は何のことだか一向に分からない様子だったが、我々二人もその様子を面白がって、その件に関しては敢えてだんまりを決め込んだ。
「いやちょっと、気になりますよ」
「………」
「………」
「いやいや、ちょっとお二人さーん」
間もなく、我々は会社に着こうとしていた。
今日は何だか、いつもより騒がしい出社となってしまった。