散文5『腕時計』
渡瀬恵太郎は営業部である。年齢は27歳。私とは部署が違うが、彼が入社した時点ですでに他の営業が40オーバーのベテラン勢であったため、まだ年の近い私が何かと世話を焼いて仲良くなった。そう、あの頃は私も30代前半だったのである。
基本的に私の昼食はコンビニ弁当なのだが、渡瀬が事務所にいて都合が合えば、一緒に外に出て昼食を取ることもしばしばあった。その日がたまたまエイプリルフールと重なって、あのような恥をかくことになったのだが… あの日以来、私は机の上の置き時計を毎朝チェックすることにしたのである。
今日も出社して自分の席に着くなり、私は置き時計の時間を、自分の腕時計の時刻と秒単位で合わせた。すると、少し後にハトソン君が出社してきた。
「センパイ、おはようございます」
「おはよう、ハトソン君」
いつものように挨拶を交わしたのだが、その時、たまたまハトソン君の腕時計が目に入った。
「そういえば、ハトソン君は腕時計を手の甲側に着けているんだね」
一般的に、と言うと語弊があるが、個人的に女性は腕時計を腕の内側に着けているのをよく見かけるので、少し気になったのである。
「これですか?」
ハトソン君はそう言って、自分の腕時計をチラリと見た。
「結構多いですよ、外側に着ける女性も。それに、腕時計を内側に着けるのは和服を着ていた時代の名残ですので」
「和服?」
私は頭の上にクエスチョンマークを浮かべた。
「女性の和服には、脇のところに“身八口(みやつくち)”という切れ目が入っているんです。外側に着けた腕時計を見ようとすると、その切れ目から、着物の中が見えてしまうので…」
そう言いながら、ハトソン君は大袈裟に腕を上げた。
「内側に着けることで、それを回避していたわけです」
今度は手首の内側を上に向け、脇を締めた。なるほど…
「ですので、洋服の現代において、腕時計を内側に着ける必要性は無くなったのです」
何かの講義でも聴いたかのような満足感を得てしまうくらい、私は納得してしまった。
「しかし、よくそんなこと知ってるね」
「女性の嗜みです」
まさかここでハトソン君の口から「女性の嗜み」という言葉が出てくるとは…
当の本人は説明を終え、朝の仕事の準備に取り掛かり始めている。書類を出したり、筆記用具の準備をしていると、腕時計が机に当たり、カチャリと鳴った。
「あ、それと。その腕時計って男物だよね?」
ハトソン君の腕時計は、彼女の華奢な腕に対して不釣り合いな大きさであった。私は以前から気になっていたことを思い出して、つい口に出した。
すると、ハトソン君は咄嗟に腕時計を、私の視線から隠すような仕草をした。もしや、私は突いてはいけないところを突いてしまったのではないだろうか。例えば、亡くなった父親の形見とか…
「いや、いいんだ。言いたくないこともあるだろう」
私の弁解に、ハトソン君は一瞬俯いた。
「いえ、言いたくないわけではありませんが、今ここではちょっと」
珍しく、躊躇するようなハトソン君の表情を見た。私は何かフォローせねばと、必死に言葉を探したが、次の瞬間、私の心配はどうやら取り越し苦労だったようである。
「あ、ちなみに。亡くなった父親の形見とか、そういった類のものではありませんので。感傷は不要です」
まるで私の心を読んだかのような返しに一瞬驚いたが、スパッと言い切ったハトソン君の言葉は非常に心地よかった。表情はいつものハトソン君に戻っている。
「分かった。逆にお気遣いありがとう」
とりあえず、腕時計の話はまた今度にしておこう。私はお礼の言葉を添え、自分の仕事の準備に取り掛かった。