夜がな夜っぴて考え事…

趣味で自由に小説書いてます

散文16『若人よ』

 お昼の休憩を告げるチャイムが鳴ると同時に、ハトソン君が声を掛けてきた。

「すみません、センパイ」

「ん、どうした?」

「ちょっとお話があるのですが、お昼はお出掛けですか?」

「まぁ、コンビニで弁当でも買って来ようかと思っていたが。すぐに戻って来るよ」

 そう答えると、ハトソン君は少し間を置いてから、「お昼を食べながらで良いので、聞いてほしい話があるのですが」と言ってきた。何の話だろうと勘ぐろうとしたが、見当がつかない。というか、そもそもハトソン君の考えていることは予測が難しい。

「分かった。すぐに戻るよ」

 とりあえず私はそう言って財布を手に取り、一先ず弁当を買いに席を離れた。

 

 私はそそくさと買い物を済ませ、席に戻った。するとハトソン君の姿は無く、机の上に付箋が貼ってあった。どうやらハトソン君は同フロアにある休憩スペースに移動したようだ。私は付箋を剥がし、そのままハトソン君の元へと向かった。

 我が自社ビル(三階建て)の二階にある休憩スペースは、お昼の時間や定時後の談笑の場として使われる、社内の共有スペースである。普段の私は自分の席で昼食を済ませることが多いので、あまり利用することは無い。どちらかと言うと、女性社員の利用率が高いイメージだ。

 休憩スペースに着くと、ちらほら点在する談笑の輪と一線を画すように、空間の端のほうにハトソン君の姿があった。

「お待たせ」

「いえ、わざわざすみません」

 ハトソン君はすでに弁当を広げ、食べ始めていた。手を止め、口元を隠しながらしゃべるハトソン君を横目に、私は買ってきた弁当をデーブルに置き、彼女の向かい側に座った。

 座ると同時に、私は弁当の包装を解きながら、ハトソン君に話し掛けた。

「それで? さっきの、聞いてほしい話というのは?」

 ハトソン君は視線を弁当に向けたまま、口の中に残っていたものを飲み込むと、静かに話し始めた。

「先日、環くんから連絡がありました。一旦、就職活動を休憩するそうです」

 ハトソン君の口から環くんの名前が出てきたことに少々面を食らったが、すぐに状況を理解した。先日の私のアドバイス通り、彼は告白した女性に、あの条件の真意を聞いたのだろう。その相手というのが、まさしくハトソン君だったということか。まさかとは思っていたが、本当に私の予感が的中していたとは。世間というのは案外狭いものである。

「まさか、センパイと環くんが知り合いだとは思いませんでした」

 ハトソン君は私に視線をくれないまま、再び弁当を食べ始めた。

「いやなに、たまたま私がよく行く喫茶店で彼がバイトしていただけだよ。ちょっとしたきっかけで彼の相談に乗ったんだが、まさか相手がハトソン君だったとはね」

「そうですね。お互いに、まさかですね」

 相変わらずこちらを向く気配がないハトソン君を横目に、私は弁当を食べる準備を進めた。あくまでこの話は彼女にとって、昼食中の雑談のような話なのだろうか。何となく腑に落ちないまま、私は割り箸を割った。

 聞いてほしい話がある、ということであったため、私から二人のことを問うようなことは憚った。すると、まるで独白でもするかのように、ハトソン君は語り出した。その様子に、私は敢えて大きな反応を示さなかった。

「環くんとは同じ大学だったんですが、付き合いはもっと古いんです。姉が学生時代に所属していた市民楽団に彼もいて、私はお手伝いで参加していたんですけど、お互い高校生くらいの時からの付き合いです。その当時から環くんは真面目で、正直者で、それでいて周りのことにも気を使えて、本当に好青年といった感じでした。他の楽団員からも可愛がられていましたし」

 そこで、ハトソン君はおかずを一つ摘み、口に運んだ。

 どうやら環くんは昔から、私が抱いたイメージ通りの青年だったようだ。そして、そんな彼を悩ませるハトソン君はなんと罪深い女であろうか。

 ハトソン君は口に入れたおかずを飲み込むと、再び語り出した。

「でもその反面、自分を抑え込みすぎるところもあります。彼は優しすぎるので。私も社会人になって思いましたが、世の中良い人たちばかりではありません。ズルい人も悪い人もたくさんいます。その中で、自分を守っていける“芯”のようなものが無ければ、いつか潰れてしまうかも知れません。好きなモノやコト、信念みたいなものでも構わないと思います。時には他人への迷惑も省みない、自分を守るための何かが、彼には必要だと思ったんです」

 なるほど、そういうことだったのか。彼女なりの気遣いというか… 何というか。

「“芯”のようなものか… つまり、それが『立派な社会人』という表現になったということか。それにしても、それは随分と難題だったな」

「えぇ、私も言われてそう思いました。なので先ほど言ったようなことを彼にも説明して、一応、分かってはもらえたみたいです。それに、決して彼を試そうとか、意地悪しようとか思ったわけではありません。それも彼は理解してくれました」

 まぁ、そういうことであれば、環くんとしては望むべき答えを貰えたということか。あとはハトソン君の言う、“芯”を持った男になれるかどうか。

 ところでしかし、今日のハトソン君は全く私と目を合わせようとしない。何故だろうか? 弁当を食べながらだからなのか、何なのか。何か私に悟られたくないことでもあるのだろうか…

「理解してくれたのなら良かったじゃないか。そこまで説明してくれれば、環くんも頑張りようがあるだろう。でもそれなら、卒業は待ったにしても、立派な社会人になるのは一緒になってからでも良いんじゃないか? 聞いている限り、ハトソン君が彼のことを嫌いなわけではないようだし、君が彼を支えてやってもいいじゃないか?」

 私がそう言うと、ハトソン君はハッと顔を上げた。そして、「いえ、それは…」と言うと、またすぐに目を逸らした。

「今のままでは、私が環くんを傷つけてしまうので…」

 そこでハトソン君は、また一口おかずを口にした。

 ハトソン君が彼を傷つけてしまうとはどういう意味なのだろうか。環くんの言う通り、彼女のことならダメならダメと言いそうだが、こんな回りくどい言い方で表現するなど、彼女自身が今回の件に冷静さを欠いているということか。

「ハトソン君も案外、真面目なんだな」

「…それはどういう意味ですか?」

 上目遣いでそう答えたハトソン君の顔は、ムスッと不満そうな表情を呈していたが、半面、それは照れ隠しにも見て取れた。

「いやいや、これは失敬。今のは聞かなかったことにしてくれ」

「分かりました」

 私は心理学者でもないし、人の心を読める超能力者でもないが、何となくハトソン君の気持ちが分かった気がした。これは私の想像に過ぎないが、ハトソン君が彼から取ったという“人質”の腕時計も、もしかしたら彼女にとっても“人質”だったのかも知れない。自分の心を留めておくための、自分自身への“人質”。

「ちなみに、ハトソン君は持っているのかい? “芯”というものを」

「…そうですね。人に話すほどのものではないですが、一応」

「ほう。それは教えてはもらえないということかい?」

「はい」

 何にせよ、環くんは一先ず前に進めそうだし、ハトソン君は相変わらず。

 私はしばらく、この若い二人を温かく見守るとしよう。

「とりあえず、今回の件でいろいろとセンパイにもお手数お掛けしたようなので、一応報告をと思いまして」

「そうか。わざわざありがとう。まぁ、何かあれば相談くらいは乗ってあげられるが、基本的に二人に干渉するつもりはないから、自由にやってくれ。ただまぁ… いずれにせよ、二人の幸せを願っているよ」

「ありがとうございます」

 ハトソン君は視線を上げず、コクリと頭を下げた。

「しかし、若い二人の幸せを願うようになるとは、私もすっかりおじさんだな」

 ハハハと空笑いすると、ハトソン君はおもむろに顔を上げた。

「そうですね」

 そういった彼女の視線は、その時ばかりはしっかりと私を捉えていた。そして、本心なのか、忖度なのか、一言こう付け加えた。

「ただ、良いほうのおじさんです」

 どうやら私は、世の中の“良い”ほうのおじさんらしい。