散文11『ウサギとカメ』
「なぁハトソン君」
「はい」
「『ウサギとカメ』という童話を知っているかい?」
「もちろんです。堅実なカメが怠惰なウサギに勝つという、世の理(ことわり)を説いた素晴らしい作品だと思います」
「ず、ずいぶんな言いようだな」
「間違ってましたか?」
「いや、間違いではない。一般的な解釈としてはそうだろう。しかし、私は違うと思うんだ」
「それはどう違うと?」
「む… それはだな。あれは堅実なカメの美談ではなく、物事はウサギのようなエンターテイナーがいるからこそ、周りが引き立って見えるという教えだと思うんだ。つまりあの話は、ウサギがいてこそ成り立つ物語だ。だってそうだろう。ウサギがあのまま、油断せずにゴールしていたら、堅実なカメがただののろまな愚か者になってしまう。それでは可哀そうすぎると思わないか。逆にウサギも堅実だったとしよう。ウサギもカメもまじめに堅実に二人一緒にゴールしました。そりゃそうだろうって話になってしまって、教えも何もなくなってしまう。あの物語を、ハトソン君が言うように、世の理を説くまでに昇華させたのは、ウサギのパーフォーマンスではないか。彼のエンターテイナーとしての行動が、あの話を引き立てているのではないか。そうは思わないか、ハトソン君」
ハトソン君は私の目を見て離さなかった。そして、私の目を見て言った。
「なるほど、ウサギのエンターテイナーとしての才には感服いたします。そして、私はミルクティーを希望します」
話は数時間前に遡る。
就業時間の少し前に、突然声を掛けてきたのは営業部の渡瀬であった。
「すいません、先輩!」
声を掛けてきたと思ったら急に頭を下げられたものだから、私は面を食らった。
理由を聞くと、今日中に入力しなければいけなかったデータをつい先ほどまで忘れていたと。しかも、同僚の分まで引き受けておいて、である。自分の分は自分でやるから、同僚の分を手伝ってくれないかということだった。どうせ渡瀬のことだから、調子に乗って引き受けたのだろう。手を貸す精神は素晴らしいが、それを他人にやらせることになるとは、皮肉な話である。私は定時で帰る予定だったが、困った後輩、もとい、後輩の同僚のために一肌脱ぐことにした。というのが事の発端である。
渡瀬から受け取ったデータを持って机に戻ると、ハトソン君が声を掛けてきた。事情を話すと、「私も手伝います」と言ってきた。申し訳ないと思いながらも、二人でやれば時間も半分で済むと思い、お願いすることしたのである。
どうせやるならと、私はハトソン君に勝負を持ち掛けた。入力するデータを二等分し、早く入力し終わったほうが、もう片方に飲み物を奢るというものである。ハトソン君はこの勝負に乗ってきた。こうして、飲み物を賭けた勝負が二人の間で繰り広げられることとなったのである。
勝負の行方は、やはり経験値の差で圧倒的に有利な私が、ハトソン君に大差をつけて終盤に差し掛かろうとしていたところだった。そのまま終わらせておけばよかったのだが、ついつい同情の念が出てきてしまい、私はハトソン君がちょうどいいところまで追いつくのを待とうと思ってしまった。そして、トイレに行くと言って席を離れ、定時後の薄暗くなった廊下の椅子で、小休止を取っていたのである。その小休止が仇となってしまった。薄暗くなった廊下は、うたた寝するのには丁度よい環境であった。少し目を休めるために瞑ったつもりが、目を開けた時には、目の前にハトソン君がいたのである。
「センパイ、こんなところで寝ていたら風邪を引きます」
そう言ったハトソン君の顔はよく見えなかったが、おそらく薄ら笑っていたことだろう。机に戻ると、ハトソン君の机の上はきれいに片付けてあった。そして、私の机の上も、である。
「あ、先輩のデータも入力しておきました。パソコンを見たら、もう少しだったので。二人分のデータは先ほど渡瀬さんに提出しておきました」
「あ、ありがとう」
「ということで、勝負は私の勝ちということでよろしいですか?」
「もちろん、ハトソン君の勝ちだ」
自分の分もやってもらっていては、何も言えない。しかし、これでは私がただの間抜けな人間になってしまう。何とか挽回できないものか…
「なぁハトソン君」
「はい」
「『ウサギとカメ』という童話を知っているかい?」