散文8『憧れ』
今までも何となく頭の中で考えてきたことがある。それは、趣味で何か楽器を始めてみようか、というものだ。これまでの人生において、音楽と密接に関わってきたことがない。もちろん、人並み程度に音楽を聴いたり、カラオケで歌ったりしたことはあるが、演者として音楽と向き合うということはしたことがない。それ故、漠然とした憧れのようなものがあるのかも知れない。
「なぁ、ハトソン君」
「はい、何でしょう?」
「君は、何か出来る楽器はあるかい?」
「楽器ですか? いえ、音楽は特にやってきませんでした」
「そうか。いや、最近楽器を始めようかと思ってね。もちろん趣味で」
休憩中、携帯電話を操作していた手をわざわざ止め、ハトソン君はこちらを向いた。
「私自身は何もしてきませんでしたが、姉ならトランペットをやっていた経験があります。今は恐らくやめてしまっていますが」
「ほう、お姉さんが」
そういえば、ハトソン君の家族構成など、身の回りの詳しい話はしたことが無かったな。
「ハトソン君はお姉さんと二人姉妹かい?」
「はい、二つ上の姉が一人」
ハトソン君のお姉さんとは、いったいどんな人物だろう。ハトソン君に拍車がかかったような人物なのだろうか。気になるところではあるが、それはまた今度にしよう。
「ハトソン君は、お姉さんの影響とかで音楽を始めようとは思わなかったのかい?」
「はい、小さい頃は姉が出る演奏会を観に行ったりもしていましたが、音楽をやっている人たちはとても華やかで、輝いて見えました」
そこでハトソン君は、私から視線を外し、目を伏せた。
「姉は社交的な性格で、見た目も良くて、私とは真逆の人間でした。私とは違い、周りからも期待されて…」
徐々にハトソン君の表情が暗くなっていったように見えた。そして、何やら話の雲行きが怪しくなってきた気配がした。
「私は、姉が生まれてきた後の、残りカスのような人間なんです。私が姉と一緒に音楽をやるなど、おこがましくて…」
まさか、“残りカス”発言まで出るとは。そんなことはない、という言葉は彼女にとって何も意味を成さないであろうが、さて、何と声を掛けたものか…
「というのは、冗談ですが…」
おーーーっと、冗談かーい!
この場が舞台であったら、客席まで転げ落ちそうなくらい前につんのめっていたところである。そんな私の心情を読んでか、私に視線を戻したハトソン君の表情は満足げであった。
「性格上、表舞台に興味が無かったので、ライブラリアンのお手伝いで何度か演奏会に参加したことはあります」
「ライブラリアン?」
私は心の呼吸を整えるため、敢えてそのまま聞き返した。
「オーケストラなどで、楽譜の準備や諸々の裏方作業を行う専属のスタッフです」
「へぇ、そんなスタッフがいるんだね」
「はい、姉が私の性格を知った上で誘ってくれました。姉が社交的なのは事実です。見た目もオシャレで、私にとっては憧れの姉です。でもそこに、妬みも嫉みもありません。単に役割が違うというだけです。姉妹の関係は良好ですので安心してください」
「そうか、分かった。今日は安心して眠れそうだ」
私は、軽く右手を上げた。すると、ハトソン君は何かに気付いたように、ハッとした表情を見せた。
「そうだ。センパイも、どちらかと言うと表舞台向きというよりは、裏方で力を発揮されるほうではないですか? ライブラリアンなどいかがですか?」
「なるほど、ライブラリアンか。確かに私の性格には合っているかも知れない…」
ん? ライブラリアン?
「いやいや、私は楽器を始めたくてだな」
何だかハトソン君が入社して一年が経ち、私への扱いが雑になってきたような気がするが、それは打ち解けてきたということなのか? はたして喜んでいいものなのか。
どうやら、まだまだ彼女との付き合い方には注意が必要なようである。