散文9『急な誘い』
連休を控えた金曜日、営業部の渡瀬が声を掛けてきた。
「先輩、お疲れ様です。急なんですけど、今日の夜、飲みに行きませんか?」
「ん? どうした」
今日の今日とは、また急な誘いである。
「いや、この前先輩に手伝ってもらった案件、決まったんですよ。だからお礼に。もちろん、俺の奢りで」
「なるほど、そういうことか」
渡瀬は見た目に反して律儀な男である。取引先とのアポイントが無いときは平気で寝癖を付けたまま出社してくるわ、欠伸は堂々とするわ、挙動に関してはまだまだ口を出したくなるが、仕事に対する姿勢は信頼が置けるものがある。
「私は構わないよ」
「あざっす。あ、すずちゃんも一緒にどう?」
“すずちゃん”とは、もちろんハトソン君のことである。彼女は考える様子もなく口を開いた。
「すみません。今日は予定がありまして。また今度、機会があれば」
「そっか、急にごめんね。また今度一緒に飲もう」
ハトソン君の相変わらずの対応で、二人の会話は簡潔に終わった。
「それじゃ先輩、駅前で飲みましょうか。仕事終わりにまた声掛けますんで」
渡瀬はそう言って席に戻っていった。
会社から駅までは、徒歩で約10分。ちなみに、その駅から私が住むアパートの最寄り駅までは二駅で着く。そのまま降りずに40分も乗っていれば、先日メガネを購入した県内一のS市に着くという位置関係である。プライベートの移動は主に“ Door-to-Door ”の車を選択してしまうが、会社の周りは車通りが多いため、通勤は電車を利用している。そして電車通勤は、今日のような急な会社帰りの飲み会などでも便利なのだ。
駅前に着いた私たちは、特に店の予約もしていなかったので、適当な居酒屋に入った。
店に入って早々、渡瀬は今回の案件が如何にして成約に至ったかを自慢げに語り出した。私はそれを聞きながら、焼酎をチビチビと飲み進めた。今日はお礼と言いながらも、主役は渡瀬である。その辺は重々承知しているので、私は渡瀬が揚々と話せるように聞き役に徹した。
話も落ち着いた頃、私は気になっていたことを渡瀬に問うた。
「ところで渡瀬は、腕時計を内側にしているんだな」
「あ、これですか? いや、今日お客さんと打ち合わせがあったんで… 内側にしてたんですよ。打ち合わせ中に時計を見るのって失礼じゃないですか」
そう言いながら、渡瀬は時計を外側に付け直し、堂々と時計を見る仕草をして見せた。
「へぇ、営業マンの嗜みってやつか」
「そうっすね」
こういったところにも気を使っているとは、抜かりのない男である。
「そういえば、ハト… 村君も、時計を外側に着けていたな」
「あぁ、結構厳ついやつですよね? あれ、彼氏とかのですかね?」
彼氏… なるほど、そういう線もあるか。
「今日もきっと、彼氏とデートですよ。いいなぁ」
確かに、咄嗟に時計を隠す仕草など、普段のハトソン君らしからぬ行動であった。今日の予定というのも、本当に彼氏とのデートなのであろうか…
「いや、今日の予定というのは嘘だろう。きっと、断る口実だ…」
私は深く考察した。だが、明確な答えは見つかりそうになかった。それよりも先に、気持ちが悪くなってきた。
「断る口実っすか? それはショックだなー」
額を抑える渡瀬を横目に、私の頭の中は、なお一層グルグルと回ってきた。
「う、ちょっとトイレ…」
おもむろに立ち上がった私に、渡瀬が何か声を掛けてきたが、私の耳には殆ど入ってこなかった。そんなことよりも、今の私の神経は、トイレまでの道のりを一歩一歩進むことに研ぎ澄まされていた