散文13『オーパキャマラド』
休憩時間、給湯室からコーヒーを淹れて戻ってきたハトソン君に、私は先日の楽器屋での出来事を話し掛けた。
「なぁ、ハトソン君」
「はい、何でしょう」
「ちょっと前に、楽器を始めたいと言っただろう」
「はい、言っていましたね」
ハトソン君は私に視線を向けながら、ゆっくりカップを机に置き、椅子に腰を掛けた。
「先日、楽器屋に行ってきたんだ」
「買ってきたんですか?」
「いや、その日は事前調査に行ってきただけなんだが、偶然の再会があってな。それもあって、クラリネットでも始めようかと思っているんだ」
ハトソン君はカップに手を伸ばし、口元に運んだ。そして、唇を尖らせ息を吹きかける。
「なるほど、クラリネットですか。“偶然の再会”の人にでも進められたんですか?」
そう言って、ハトソン君はコーヒーを一口飲んだ。相変わらず、指摘が鋭い。
「あ、あぁ。その通りだよ、よく分かったな」
「何となくです」
「そうなんだよ。その時偶然、前にメガネを買った店の店員と出会してだな。クラリネットが似合いますね、と言われたんだ」
ハトソン君は再び唇を尖らせながら、私の話を聞いている。私は構わず話を続けた。
「最初はクラリネットを見て、複雑そうな形をしているし、難しそうかと思ったんだが、結局どれも初心者から始めるんだから、似合うと言われたものを始めようかと思ってな。これも何かのご縁ということもあるだろうし。どうだろう?」
「どうだろうと言われても、というのが正直なところですが、その女性が似合うと言ったのなら良いんではないでしょうか」
ハトソン君はそこでようやく二口目を飲んだ。
確かに、「どうだろう」と聞かれても困るか。ハトソン君にとってはどうでもいい話である。しかし、ん? なんだ? 今のハトソン君の言葉に、何か引っかかるものがあった気がしたが…
一瞬眉をひそめた私の表情を誤解したのか、ハトソン君は補足するように言葉を加えた。
「似合うというのは、演奏している姿がイメージ出来るということですから、それは上達への第一歩だと思います」
ハトソン君にしては珍しく合理性に欠けるコメントであったが、まぁ、上司の顔色を窺ってのことだろうから、可愛いものである。
「そうだな。それに楽器を始めるにしても、折角始めたのに似合わないと言われては、やる気も無くなってしまうからな」
「そうですよ」
「よし、この件については引き続き、前向きに検討することにしよう」
「クラリネットに決まりではないんですか?」
「いやなに、なかなかの高額なものだからな。慎重に慎重を重ねようかと思ってな」
「先輩らしいですね」
「まぁな。それは喜んでいいことか?」
ハハハ、と一笑した。すると、ハトソン君は何か楽しいことを思い付いたように微笑を浮かべた。
「ところでセンパイは、『クラリネットこわしちゃった』という童謡はご存じですよね」
「あぁ、もちろんだ」
「では、クラリネットを始めるかも知れない先輩に一つ」
ハトソン君は、静かに人差し指を立てた。
「あの曲、子供がお父さんから貰ったクラリネットをこわしちゃった歌だと思ってますか?」
「ま、まさか…」
「はい、あのクラリネットは、壊れてなかったんです」
「なんと」
そこでハトソン君は、焦らすように一呼吸置いた。最近、この手の間の取り方が上手くなったような気がするが… 私もまた、雑学的な話は嫌いではなく、私は素直にハトソン君の言葉を待った。
「つまりセンパイ…」
「つまり…」
「オーパキャマラド、です」
「オー… パキャマラド…」
それは、なかなか理解に苦しむ呪文のようであった。