夜がな夜っぴて考え事…

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散文10『優雅な時間』

 たまには部屋の掃除をしようと、いつもより早く起きた休日。作業は手こずりながらも順調に進み、今日はこの辺にしてやろうと時刻を確認すると、もうすぐ三時になろうとしていた。外を見ると、太陽の光は柔らかく、風で木々が微かに揺れて、誠に麗らかである。折角、掃除も終えて気分が良かった私は、春の陽気に誘われて、久しぶりに喫茶店で優雅な時間でも過ごそうと考えた。

 早速、身支度を整えて向かったのは、私のアパートから自転車で数分のところにある、古い木の扉がおしゃれな喫茶店である。店の名前は『喫茶ネロ』。閑静な住宅地の中にあって、建物の壁面にツタを這わせているその姿は、異様ではあるが、どこか懐かしい佇まいでもある。

 店に着いた私は、店の前に自転車を止めた。いざ中へ入ろうと扉を開けると、木の扉は、蝶番が軋む音とドアベルの音を店内に響かせた。最初に気付いたのは、若い店員さんであった。

「いらっしゃいませ!」と元気に声を掛けてきたのは、「環(たまき)」という名札を付けた、学生アルバイトの男の子である。カウンターの中にいるマスターは私に一瞥もくれず、目の前のコーヒーに集中している様子である。ちなみにマスターは今年、古希を迎えるらしい。休日の午後ということもあり、テーブル席はご近所のマダムたちで埋まっていた。私は運よく空いていたカウンター席の、一番奥の席に腰を下ろした。

 この店がいつから営業しているかは分からないが、私がこの街に引っ越してから十数年、よく利用させてもらっている。利用し始めた当初はマスターと奥さんの二人で店をやっていたが、数年前に奥さんが体調を崩し(大事には至らなかったが)、それ以来は、週六日だった営業も不定休になってしまった。三年くらい前から環くんがアルバイトとして入ってからは、奥さんと環くんが代わりばんこで店に出て、安定した営業を再開することが出来た。私としては、店の雰囲気も良く、ぜひ長く店を続けてほしいと思っているが、商売というものはそう簡単なものではないのであろう。私に出来ることは、少しでも店の売り上げに貢献することぐらいである。

 私は、環くんが持ってきてくれたメニュー表を受け取り、いつものページを開いた。いつものページとは、コーヒーとケーキセットのページである。開いた瞬間、私の目に留まったのは、“新作”と書かれた『ピスタチオのミルフィーユ』であった。ミルフィーユとは、これまた優雅な響きである。それにして新作。これも何かのご縁であろう。私は即決で、グァテマラ・ピーベリーミルフィーユのセットを注文した。

 

 しばらくして、注文していた品が私の前に差し出された。ミルフィーユを乗せた皿は緑色であった。おそらく、ピスタチオをイメージしていると思われるが、洒落ている。そして、白いコーヒーカップに入れられたグァテマラ・ピーベリー。併せて置かれたのは、青いシュガーポット。

 年季の入った一枚板のカウンターに並べられたそれらは、さながら大自然の風景画のようである。カウンターは大木を表し、皿は生い茂る緑、シュガーポットは青い空を醸し出し、カップは空浮かぶ真っ白な雲。まさにメガネの縁で切り取られた一枚の絵画のようである。そんなことを考えてしまう私の牧歌的な想像力… なんて優雅であろう。

 私はしばし自分に酔いつつ、コーヒーを一口飲み、さて優雅にミルフィーユを頂こうとフォークを手に取った。

 いざフォークをミルフィーユに乗せ、それをゆっくりと押し込んだ。すると、ミルフィーユは力なくカスタードをはみ出させ、静かに崩れていった。その瞬間、ミルフィーユは優雅とはかけ離れた未知の造形物へと姿を変えた。私は手を止め、静かに辺りを見渡したが、とうやら誰も私のほうは見ていない。私は安堵し、素早く未知の造形物を平らげた。あんなミルフィーユの姿を見られていたら、恥ずかし過ぎて居た堪れなかったであろう。

 どうやら私には修行が足りなかったようである。優雅とは一朝一夕にはいかない。今日はそれを学ぶことが出来ただけでも良しとしよう。

 落ち着きを取り戻した私は、その後はコーヒーの香りを楽しみながら、残された休日の午後を優雅に過ごした。

 ちなみに調べたところ、ミルフィーユは最初に倒してしまってから、側面に対してナイフを入れると切りやすいらしい。これを踏まえて、次回はぜひリベンジしたいところである。