夜がな夜っぴて考え事…

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散文38『マスターの古希祝い(2/2)』

 会も終盤に差し掛かり、マスターから改めて挨拶を頂く場面になった。マスターは奥さんに促されて一歩前に出た。

「えー、今日は本当にありがとう。環も、ありがとう」

 マスターが環くんに視線を向けると、環くんは静かに頭を下げた。周りからは自然と拍手が上がった。

 マスターは拍手が鳴り止むのを待つと、ゆっくりと話し出した。

「私がこの店を始めて以来、たくさんの人達に可愛がっていただき、私も今年で70という歳を迎えることが出来た。さっきの環の質問攻めで、店を始めた当初は何年この店を続けられるか不安になりながら、毎日毎日がむしゃらに働いていたことを思い出したよ。当時はこんなにも長く続けられるとは思ってもなかった。私はとても充実した毎日を過ごすことが出来た。それもこれも、ここにいるみんなのおかげだ。みんなも、いつもありがとう」

 マスターはそこで改めて深々と頭を下げ、今度はマスターに大きな拍手が注がれた。マスターは照れ臭そうに頭を掻いている。

 しばし鳴り止まない拍手を両手でなだめるように制すると、マスターは言葉を続けた。

「本当にうれしいよ。今日もこんな会を開いてもらって、みんなに集まってもらって。感謝してる。しかしだな、んー… 実は、今日はみんなに言わなきゃならないことがある」

 ん? 何だろう? 私は何やら、マスターが話の舵を不穏な方向へと切っていくように感じた。

「みんなご存じのとおり、妻が体調を崩したのはもう年前のことだ。その時から私の中で考えるところがあった。開店当初は、体が動く限りずっとこの店を続けていきたいと思っていたんだが、今はちょっと違う。今は、元気なうちに妻と一緒にゆっくりとした時間を過ごすのも悪くないんじゃないかって思えてきた」

 おや、これはもしや…

「だから、3年前くらいからこの店を閉めることを考えてたんだ」

 …まさか、いやな予感が当たってしまった。

 マスターの言葉にみんなもにわかにざわつき始めた。傍らに立つ奥さんはみんなの反応を黙って見つめてる。

 マスターはそんな奥さんを一瞥すると、一呼吸置いて再び話し始めた。

「本当だったら、3年前に一度店を閉めようかと思ったんだ。でもその時、偶然出会ったのが環だった」

 そう言ってマスターは笑顔を見せながら環くんに視線を向けた。環くんは微動だにせず、マスターの視線を受け取っていた。

「その時は別に求人も出してなかったし、新しいやつを雇ってまで店を続けようとは思っていなかったんだが、突然環がこの店で働きたい、バイトさせてほしいって出てきたもんだから、こりゃ神様がもう少し店を続けなって言ってんじゃないかって思っちまったんだな。バカな話なんだが、その時は何となくそれをすんなり受け入れちまった。まぁそれで、結果的に今日まで店を続けることが出来たんだが、その環もとうとう来年の3月で大学を卒業だ。だから、いよいよこのタイミングが引き時なんじゃないかと思ってな。つまりその… 来年の3月でこの店を閉じようと思う」

 そう言い切ったマスターの表情は何だか申し訳なさそうに見えた。別にそんな表情をする必要は無いと私は思ったが、この場でなんと言葉に出してしていいか分からなかった。私としては、これからは奥さんと二人でゆっくりしてもらいたいという気持ちもあるし、しかし店を閉めてほしくないとも思う。みんなも同じようなことを考えているのではないかと思った。みんなが同じように言葉を探しているようで、一瞬店内は静かになった。

 しかし、その静寂も本当に一瞬だった。

「だから、店を閉める必要はないって言ってんじゃん」

 みんなの視線は一気にその言葉の主のほうに送られた。その人物は、マスターから一番離れた壁際のイスに腰かけていた。

「私がこの店やるって。そしたら、この店はこれからもずっと続けられるじゃん」

 そう言うと、魔女はイスから立ち上がった。私は二人を交互に見た。周りのみんなもほとんど同じ動きをした。マスターと魔女だけがピタッと動かず対峙していた。

「それは出来ない」

「だからなんで。私の店だって軌道に乗って、私がずっと居なくたって店を任せられるスタッフもいる。私がこの店に入ったってなんの問題もない」

 魔女は語気を強めて言った。まさに、我々の前で親子喧嘩が始まったようである。マスターはと言うと、至って冷静な様子である。

「お前はあの店をそんな無責任な気持ちで始めたのか?」

「無責任って何? 今もちゃんと責任もってやってるよ」

「でもお前は、その店を他人に任せて離れようってんだろう?」

「他人って言ったって、信頼できるスタッフだよ。別に店のことを全部投げ出してやるっていうんじゃない」

「それじゃお前は、俺の店と自分の店と、どちらも片手間でやろうってのか?」

「そんなわけないでしょ」

「そうだろう。商売を甘く見るんじゃないぞ。自分の店だろう。だったら、ちゃんと最後までお前が面倒見て、やり切るんだよ。それが、お前が店のために、その店に来る客のためにしなきゃいけないことなんじゃないのか?」

 マスターの口調は、魔女の感情の熱を冷ますように終始冷静さを保っていた。さすがの魔女もマスターの言葉を受けて、次の言葉が出るまでに一間を置いた。

「だったら、本当にこの店はもう終わりなの…?」

 その言葉は、私の心にチクリと刺さった。まるで全く望みの無い現実を突きつけられたようだった。先ほどまで抱いていた「店を閉めてほしくない」という無責任な考えは、魔女の言葉に消し去られた。

「始まりがあれば終わりもある。俺は自分が出来ることをやり切ったと思える。もちろん環がこの店を去るから店を閉めるんじゃない。環は責任なんて感じる必要はねぇぞ。要はタイミングだ。いろんなことがちょうどいい具合に重なっただけだ。俺はこの店を閉めることに悲観は無い。それは本当だ。ただ、突然の報告になってしまったことは、みんなに申し訳なかったと思う」

 マスターは頭を下げた。私を含め、みんな黙ってその姿を見ていた。

 今日まで素晴らしい時間をこの店で過ごさせてもらってきた。そのことに感謝こそすれど、誰もマスターを責めるような人はいまい。ここはマスターの意志を尊重すべきだろう。

 私は「そんなことありませんよ」と言いかけた。すると私の口が開くと同時に、誰かが私よりも先に言葉を発した。

「それじゃあ、僕ではダメでしょうか? もしマスターが良しとしてくれるのなら、僕がこの店を継いでやっていくのはダメでしょうか?」

 声の主は環くんであった。その声は自信なさげにか細かったが、何か強い意志のようなものを含んでいるように感じた。

 突然の申し出にマスターは面食らった様子だった。みんなもあっけにとられている。そんな中、環くんはマスターの言葉を待っていた。魔女も意表を突かれた様子で、環くんを見つめていた。魔女もまた、マスターが次に発する言葉を待っているようだった。

 マスターはしばし沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。

「本気で言ってるのか? 環」

「本気です。冗談でこんなこと言いません」

 その言葉は先ほどよりもしっかりとしたものだった。

「思い付きでも言いません。今までマスターにも、奥さんにも、たくさんお世話になってきました。とても感謝しています。だから、これからは二人でゆっくりしてもらいたい気持ちはもちろんあります。でも、僕はこの店が大好きです。だから、この店には無くなってほしくはない」

 環くんの言葉は我々が抱いている気持ちを代弁してくれていた。みんなはそれを示すように大きく頷いた。

「僕がこの店に通うようになって、この店を好きになって、それで無理言ってバイトさせてもらって。ここで働くようになって、この店に来るお客さんを見てると分かるんです。みんなこの店が好きで、この店はたくさんの人に愛されてます。だから、そんなお客さんたちのためにも、この店には続いていってほしいんです。だから、僕にこの店を任せてくれませんか? 僕、頑張ります。頼りないかも知れないけど、出来るだけお二人に心配かけないように、大好きなこの店のために一生懸命働きますから」

 環くんは言い切った。マスターは黙って環くんの言葉を聞いていた。魔女も何も言わず、じっと二人のことを見ていた。

 私はマスターが環くんの提案を受け入れることを期待した。もしかしたら環くんの熱意で、閉店を免れるかも知れない。それは願ってもないことである。そんな期待を感じ取っていたかどうかは分からないが、次にマスターの口から出た言葉は、全くの絶望ではなかった。

「環の気持ちは分かった。すごくうれしいよ。だが… ここですぐにその答えを出すことは出来ない」

 マスターは言葉を絞り出すように言った。

「少し考えさせてくれ」

 環くんはその言葉を受けて、黙って頷いた。

 どうやら、この先店を続けるかどうかは一旦保留ということになったようである。こうなってしまうと、この件について部外者が安易に発言することは憚られた。我々はこれからの展開を見守り、受け入れるしかないようだ。

 魔女は大きな溜息と同時にまた椅子に腰を下ろした。

 店内は何とも居心地の悪い空気に包まれていた。その空気を察してか、マスターが口を開いた。

「何だかすまない。変な感じになっちまった。いずれにしても明日すぐにこの店を閉めるってわけじゃない。今の話は一旦忘れてくれ」と言って、手をポンポンと二度叩くと、それに同調するように環くんも「そうですね、今日はそもそもマスターの古希を祝う会ですし」と、沈んだ空気を何んとか元に戻そうと、声のトーンを上げた。そんな二人の様子を見て、周りのみんなもようやく緊張が解けたのか、各々が口を開き始め、重い空気は徐々に薄れていった。

 私も釣られて近くにいた常連さんたちと話していた。すると、気付けば魔女の姿が店内からいなくなっていた。今日もマスターと折り合いがつかずに、帰ってしまったのだろうか。私は隙を見て、魔女が座っていたイスに近づいた。そこには魔女がいた形跡はもちろんすでに無く、イスが静かに置いてあるだけだった。私は思わずそのイスに腰を掛けた。先ほどの魔女はどんな気持ちでマスターの言葉を受け取ったんだろう。どんな気持ちで環くんの想いを聞いていたのだろう。もちろん私にそんなこと知る由もないが、二人の親子喧嘩の原因がこの店の存続についてだと知り、私は魔女に対しての見方が少し変わった。魔女も、何とかこの店を残していきたいと考えていたのだろう。その想いはなかなかマスターに届かなかったようだが、マスターも少し照れがあって、素直にウンと言えなかっただけなんじゃないかと私は思ってしまった。

 いずれにしても、この先も、この店を愛している人たちによってこの素敵な空間が残っていってくれることを切に願うのみである。それは私にはどうしようもない。この件に関しては環くんに託そう。そう思って環くんを見ると、環くんはマダムたちと楽しそうに話をしているとことだった。彼もなかなかやる男である。今日は、環くんに対しても少し見方が変わった一日になった。