夜がな夜っぴて考え事…

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散文31『行きつけの店(仮)』

 無事(?)健康診断を終えた週末、私は仕事の帰りにどこかで一杯飲んで帰ろうと考えていた。

 決して緊張が緩んだわけではない。もちろんこれからも食事に運動に気を使って生活していく所存だが、時には息抜きというものも必要である。ストレスが原因で体調を崩してしまっては元も子もない。というわけで、私は部屋に帰る前に駅前で店を探すことにした。

 特に行きつけと呼べる店があるわけではないので、直感で選ぶことにした。とはいえ、今は一人である。静かに飲みたいという願望もある故、どこか落ち着けるバーのような店が好まれた。

 すっかり冷え込むようになった夜の駅前を歩いていると、案外一人で入れるような店は少ない。通りに面した店は大概がチェーン店の居酒屋であるし、ちょっと路地を覗いて見えるのはスナックやキャバクラの派手な看板である。今は正直、誰かと話すよりも一人でチビチビと飲みたい気分であるので、そういった店も対象外である。

 キョロキョロと辺りを見渡しながら歩いていると、チラリと目を配った路地の奥に何やら怪しげに光るものを見つけた。立ち止まり凝視してみたが、ここからでは良く見えない。路地自体、特に飲食店が並んでいるような通りではなく、隣の大通りに抜けるための細い通りである。その中腹辺りにその灯りは見えた。私はとりあえず、その路地に足を踏み入れた。

 数歩進むとそれまで聴こえていた街の雑音が急に小さくなったような気がした。そして灯りに近づくほど雑音は小さくなり、灯りの前に着くころには私の周りは静寂に包まれていた。そして、目の前の灯りはガラス窓から滲み漏れる室内の灯りだった。

 その扉には小さな看板が掛けられていて、そこには『BAR SATIE』と書かれていた。

「バー、サチエ?」

 私の英語力ではただその文字を英字なりに読むことしか出来なかった。しかし、バーであることは分かった。ガラス窓は擦りガラス故、室内の様子は見えない。しかし、中で何かが動くのは影の動きで分かる。私はその店に入るかどうか迷ったが、せっかくここまで来たことと、何となくその灯りから伝わってくる店の雰囲気が気になり、ゆっくりと入り口のドアノブに手を掛けた。

 扉を少しばかり開けると、店内に流れる音楽が耳に入ってきた。どこかで聴いたことがあるが、曲名までは分からない。その音楽に気を取られていたら、中から「いらっしゃい」と声が聞こえた。私は更に扉を開け、中を覗き込んだ。そして声のほうへ視線を送った。すると、カウンター越しにマスターと思しき人と目が合った。その人は私と目が合うと、ニコリと笑った。私も釣られて愛想笑いをした。

「どうぞ」と促すその声はとてもなめらかで、その声の振動はまるで店内の空気と一体化しているように感じた。

 私は促されるまま店内に足を踏み入れた。入った瞬間まず思ったことは、“狭い”。実際入ってみたら店内は四畳半ほどしかなく、カウンター席が5席しかない。扉を開けたときにその狭さに気付かなかったのは、入って正面の壁一面が開口となっていて、照明で照らされた外の風景が見えていたせいであると直感した。

 5席のうち、一番奥の席に先客がいた。店内は薄暗く、横顔もぼやけて見えたが、どうやら女性のようである。その女性は私に気を払うこともなく、カクテルの水面をだたじっと見ていた。私はその女性を気にしつつ、入り口に一番近い席に座った。

「はじめまして」とグラスを拭きながら微笑むマスターは、声の感じから男性と判断出来そうだったが、耳元にはピアスのようなものを付け、髪型は男性の短髪というよりも女性のベリーショートに近い感じだった。中性的なその容姿からは妖艶な雰囲気さえ漂っていた。そもそも来店した客に対して「はじめまして」とはなかなか聞かない言葉である。もちろん、はじめましてではあるが、逆に馴れ馴れしさを感じた。その馴れ馴れしさも決して不快なものではなく、胸元からスッと入った柔らかな手が慣れた調子で乳房をさらっていくような、くすぐったい心地よさである。とは言ったものの、あくまで感覚の話である。

 マスターの挨拶に私も「はじめまして」と返すと、マスターはまたニコリと笑った。

「お飲み物は何にしますか?」

「そうですね… それじゃあ、ジントニックを」

 静かに頷いたマスターはカウンターの中で作業を開始した。私は手持ち無沙汰になり、ふと横を向いた。カウンターの奥の席に座る女性は先ほどから体勢を変えていないようだ。深刻な表情にも見えるし、アンニュイな表情にも見える。彼女は私の視線になど気付くわけもなく、ただただカクテルに視線を落としたままだった。

「今日はお仕事の帰りですか?」

「え、あぁ。はい」

 突然のマスターからの問いに一瞬戸惑った。

「ちょっと息抜きに」

「そうですか。ゆっくりしていってください」

「ありがとうございます」

 マスターは流れるような手さばきでジントニックを仕上げ、サッと私の前に差し出した。

「どうぞ」

 私はコクリと頷いて、グラスに手を伸ばした。

 曲名は分からないが、心が落ち着くようなメロディーが流れる店内は非常に居心地が良い。マスターの声色も聞き心地が良く、全く緊張感を与えない。まるで行きつけの店に来たかのような安堵感がある。店内も四畳半ほどとはいえ、一面開口から見える外の風景(どうやらそこは中庭のようだ)のおかげで閉塞感もない。程よい暗さで落ち着き演出してくれる照明もオシャレである。

 おそらく私はまたこの店に足を運ぶことになるだろう。この瞬間、この店は私の中の”行きつけにしたい店リスト”に急浮上したのである。そんなことを考えているとカウンターの端のほうでマスターの声が聞こえてきた。

「ミナちゃん、まだ悩んでるの? 一旦、直接会ってみたら?」

 何やら込み入った話のようだ。こういう話は聞かないに越したことはない。最低限のマナーであろう。しかし、こういった話が耳に入ってくるのもまた一興である。

※決して聞き耳を立てているわけではない。あくまで不可抗力である

 私はジントニックを一口飲んだ。

「ん、美味い」

 うむ、”行きつけにしたい店リスト”最上段決定である。