散文39『サンキュー環!』
『喫茶ネロ』のマスターの古希祝いから数日後、環くんから連絡が来た。結論から言うと、環くんが正式に『喫茶ネロ』を引き継ぐことが決まったらしい。マスター、奥さん、環くん、そして魔女の四人で話し合ったそうだ。その話し合いに魔女が参加したのには驚いたが、みな納得の上での結論らしい。魔女は自分の店を今まで通り続け、ネロでのケーキの提供もそのままということで、私としてはこれからもあのケーキセットを注文でき大変助かるところである。
日曜日の『喫茶ネロ』閉店騒動に関してはあの場で結論が出なかったこともあり、ハトソン君には黙っていたが、ようやく伝えられる結果が出た。
「なぁ、ハトソン君」
「はい」
「実は先週、『喫茶ネロ』でマスターの古希祝いがあったんだが…」
「環くんが店を継ぐことになったんですよね?」
いやはや、話が早い。
「もしかして環くんから連絡が来たとか?」
「はい、昨日連絡が来ました」
「なるほど、そうだったか」
「まさか環くんが店を継ぐとは驚きましたね」
「そうだな。以前環くんが『自分もあぁいう店を持ちたい』とは言っていたが、まさかこういう展開になるとはな」
私はあの時店内で起こったことを一通りハトソン君に説明した。
「と、いうわけなんだ」
「なるほど。そんなことがあったんですか」
「あの時はいったいどうなるかと思ったが、何とか話が落ち着いて良かったよ。円満に解決したということだしな」
「そうですね。しかし、『オーレン』のオーナーは意外と熱い方なんですね。勝手に大人しい方なのかとイメージしていましたが」
「いやいや、やはり“魔女”と呼ぶのが相応しいような人物だよ。ハトソン君は苦手なタイプかもな」
「そうですね、話を聞いている限りでは」
そう言ったあと、ハトソン君は「会ってお話ししないことには分からないですが」と付け加えた。多分、会っても苦手だと思うが…
「しかし、環くんもよくあの魔女と交渉してケーキの発注をOKしてもらったもんだな。やはり、なかなかやる男だよ」
「そうですね。しかしまぁ、その件に関しては話を出した時点で環くんの勝ちというか、魔女の勝ちというか…」
「魔女の勝ち?」
そこでハトソン君は腕を組んで下を向いた。
「んー、これは私の勝手な憶測ですが、『オーレン』のオーナーは『喫茶ネロ』に強い思い入れがあったんじゃないでしょうか」
ほうほう。これは何やら面白い話の予感。
「その心は?」
「この前ネロに行ったときに気付いたんです。ネロで出してるケーキって、オーレンでは売ってないものばっかりだったんです。以前オーレンにも行ったことがあったので、あれ? って思いました。あとでネロのメニューに書かれたものをオーレンのホームページで確認したんですが、全く同じものは無かったんです」
「なるほど。普通だったら店に出している商品と同じものがあってもおかしく無いが…」
そこで私は、以前ハトソン君が口にした言葉を思い出した。
「そうか。それで、この前ハトソン君は『本当に魔法をかけているかもしれない』と言っていたんだな」
「えぇ、まぁ。でもこれは私の勝手な想像ですが。娘さんは何かお父さんの力になりたくて、でも自分で言いだすには言いづらくて、そこへ環くんからの提案があった。これは願ってもないチャンスと、承諾した、とか」
「そこで、父の入れるコーヒーに合うケーキを提供しようと。まぁ確かに、筋は通っているな」
それにしても… ハトソン君も案外、人情味のある想像をするもんだな、とは言わないでおくことにした。
「それに…」
ハトソン君はさらに何かを言おうとした。
「そもそも、店の名前があからさまというか…」
「店の名前?」
そこでハトソン君は引き出しから紙を一枚取り出し、机の上に置いた。ペンを颯爽と取ると、黙って何かをその紙に書き出した。黙ってそれを見ていると、一行目は『Nero』である。そして、その下にまた何かを書き出した。その言葉は『Oren』。
「ネロとオーレン…」
私は呟きながらぼんやりと二つの言葉を眺めた。
しばし二つの言葉を見つめた後、私はあることに気が付いた。
「反対から読むと、オーレンだ」
ハトソン君を見ると、彼女は目を合わせて黙って頷いた。
「はぁ、なるほどな。これは偶然ではないだろう。狙ってやらなきゃここまで綺麗にならない」
「そうですね。これはさすがに、気付いたときは私も気持ちが良かったです」
「これは確かに、嫌いだったら絶対にやるわけないな」
「きっと、娘さんはお父さんのことを尊敬していたんだと思いますよ。その気持ちをお店の名前で表現したんではないでしょうか」
「なんだか遠回しな表現だな。というか、誰も気づかないだろう」
「気付いてもらわなくてもいいんですよ、これは。きっと」
なにやら、「私には分かる」的な含みを持たせた言葉であったが、まぁ私には分からない何かがあるのだろう。
「不器用な父に、不器用な娘、ってところか。それに環くんが巻き込まれたとは、これはこれでなかなか面白い展開になったな」
「環くんはこのことを知る由もないですし、結果的に二人を手助けする形になったんですから、いいんじゃないでしょうか。環くんらしいというか」
「確かに、彼らしい」
私とハトソン君は思わずお互い見合って笑った。
「ともあれ、環くんは不器用な親子と、私を含めた『喫茶ネロ』の常連の憩いを守ってくれたのだから、環さまさまだな。サンキュー環!」
「そうですね。サンキュー環!」
意外と乗ってきたハトソン君には少々面を食らったが、彼女にとっても良い結果だったのだろう。
ぜひ春になり、環くんが正式にあの店のマスターになった日には、ご祝儀でも持っていってやろうと考えながら、そのままのノリで我々はグータッチをしたのである。