散文15『告白』
日曜日の午後、先週の環くんのことが気になり、ついつい『喫茶ネロ』に来てしまった。老婆心ながら、困ったことがあれば、彼の力になってやりたいと思ったのである。
店の扉を開けると、いつものように環くんの声が返ってきた。
「いらっしゃいませ!」
挨拶と同時に私に気付いた環くんは、静かに頭を下げた。そして、前回と同様、私は促されるままカウンターの一番奥の席に着いた。
「お決まりになったらお呼びください」
環くんは、手早くメニュー表を私の前に差し出すと、間を置くことなく他の客の対応に行ってしまった。
気になって店に来たとはいえ、事前に約束していたわけでもなく、私の勝手な意思で来たわけだから、彼の手を止めてまで話しかけるのは申し訳ない。そう思い、とりあえず私は、いつも通りコーヒーとケーキセットを注文し、カバンから読みかけの小説を取り出した。
しばらくして、ブレンドコーヒーとチーズケーキが私の元にコーヒーが届いた。運んで来てくれたのは環くんである。彼は商品をカウンターに置き終えると、またもそそくさと戻っていってしまった。その仕草や表情に、変わった様子は感じられなかった。やはり私の思い過ごしだったのだろうか。それならそれで、私としてはうれしいことである。
私は一先ずケーキを楽しもうと、カウンターに目を落とした。
「おや?」
私は皿の上のケーキを見た瞬間、とあることに気が付いた。ケーキに巻かれているフィルムに、何やら文字がプリントされているのである。そしてそれは、先日伺った『オーレン』のケーキに巻かれていたそれと同じではないか。
私はゆっくりとフィルムを巻き取った。そしてまじまじと見てみたが、やはり同じものと思われる。
「ここのケーキは『オーレン』のものなのか?」
本日の目的とは別に、新たな疑問が浮上してしまった。これはこれで、後で聞いてみよう。
そう考えながら、私はフィルムを皿の脇に置き、いざ、フォークを手に取った。
ケーキを堪能し、やはり今日は大人しく、一般の客として過ごそうとコーヒーと小説を楽しんでいると、不意に誰かが声を掛けてきた。
「すいません、東雲さん」
本を閉じ、顔を上げると、隣に環くんが立っていた。
「おう、どうしたんだい」
「今日って、この後時間取れますか?」
「あぁ、私は大丈夫だが」
どうやらもう少しでバイトの時間が終わるらしい。言われてみれば、客足も落ち着いて来ていたようだ。私は、環くんのバイト時間終わるまでの間、もうしばし店内に残ることにした。
「お待たせしました」
店の奥から、私服に着替えた環くんが出てきた。
「場所を変えるかい?」
「いえ、お客さんも減ってきましたし、窓際の席でどうですか?」
「私は構わないよ」
そう言って私たちは席を移動した。
席に着いた環くんは、少し躊躇いの表情を見せながらも、しっかりとした口調で語り出した。
「実は就職活動の件なんですが、ちょっと休憩しようかと思ってるんです」
「休憩?」
「はい、先日東雲さんと話をして、いろいろ考えてみました。完全に諦めたってわけではないんですけど、今のまま続けても上手くいかないんじゃないかって思って。でも休憩したからって、上手くいくかもわからないですし、それで期を逃したら元も子もないんですけど」
「まぁ、休憩という手もありだと思うが」
私はここで、あの時から気になっていたことを問うた。
「気分を悪くしてしまったら申し訳ない。だが、私から見て、環くんがそんなにも就職活動に苦戦するようなタイプには見えないんだが。言動もハキハキしていて、人事の印象も悪いとは思えないし」
私の言葉に、環くんは黙り込んだ。頑張っているのにうまくいっていない人間は、何か理由を求めている。こうだからうまくいかないのだと、諦める理由を求めている。それに対し、どうしてうまくいかないんだろう、という、ただ不安を煽るだけの言葉は少々残酷かとも思ったが、冷静に物事を考えられるであろう環くんなら、そこから何か解決の糸口でも掴めるかもしれない。
環くんは少し考え込んでいるように見えたが、いよいよ口を開いた。
「実は、好きな人がいるんです。去年の年末に、その人に告白したんです」
何だ? 急に恋の話とは。
「大学の先輩だったんですけど。あ、その人はもう社会人で。それで、その人からの告白の返事っていうのが、『まずは大学を卒業して、立派な社会人になったら考える』っていうもので」
「なるほど…」
「立派な社会人って何だろうって考えたら、やっぱり大手の企業に就職することかなって思って、有名な企業を中心に就職活動してたんです。でも、大したレベルの大学じゃないし、自分自身もそんなに秀でた成績なわけじゃないので、なかなか一次選考も通らなくて」
それで苦戦していたわけか。
「それじゃ、少し企業のレベルを下げるっていうのは?」
「はい、それも考えたんですけど。でもそれで妥協して、その人にフラれたらって考えると、それも出来なくて」
「実は、相手の人は断る口実が欲しくて、そんな条件を出したってことはないかな? あ、いや、ごめん。あくまで可能性の話で」
「それも考えましたが、そもそもその人は、ダメならダメってハッキリ言う人なので、そんな回りくどいことはしないと思います」
「そうか、それなら、より良い企業を狙うしかないのか…」
私は天を仰いだ。これはなかなか難解な問題である。ハッキリと物事を判断する人間が、『立派な社会人になったら』などという曖昧な条件を提示してくるとは、これはほとんど生殺し状態ではないか。人生の先輩として、私はどんなアドバイスが出来ようか…
私が天上のシミを眺めながら考えていると、環くんは何かを思い出して、口を開いた。
「そういえば、あと、人質を取られていました」
「人質?」
ずいぶんと穏やかじゃない言葉である。
「いや、実際は人ではないので、“人質”ではないんですが。腕時計をその人に渡したんです。『立派な社会人になるまで預かる』と言われて。まぁ、諦めた場合も取りに来いと言われましたが」
空笑いする環くんはポリポリと頭を掻いた。なんと人質を取るとは、それもまた変わった人物である。そんな人は今まで出会ったことがない… と思ったと同時に、私の頭の中に一人の人物の姿が浮かんだ。まさか… いや、まさかそんなことはないだろう。
私は敢えて、自分の考えに蓋をすることにした。余計な詮索はしないほうが良い。
「まぁ、今の様子じゃ環くんも諦めるつもりはないんだろうから、何とかしてその人の言う“立派な社会人”とやらを体現するしかないな。相談されておいて、ハッキリとしたアドバイスを出来なくて申し訳ない。ただ、試しに本人に真意を聞いてみるというのはどうだろうか」
私は一つ提案してみることにした。
「“立派な社会人”とはどういったものなのか。少々ずるい気もするが、分からないことをハッキリ伝えてみるというのは? 私の勝手な印象だが、その人物はフェアを求める気があるのではないだろうか」
「確かに言われてみれば、そうかも知れません」
「それなら、こちらからの質問に答えてくれるのではないだろか。環くんは自分の気持ちを正直に伝えているんだろう。それなら、その人の言った言葉の真意を聞いても悪くはない気がするが」
環くんは腕を組んだ。
「ちょっと、考えてみます」
「あぁ、強制はしない。好転するとも限らないからな。あくまで、環くんの判断に任せるよ」
「分かりました。ありがとうございます」
「とんでもない。またも私は無責任なことしか言っていないよ。だが、君の好運を願っている」
「はい。頑張ります」
環くんはそこで頭を深く下げた。大したことをしてやれないのがもどかしいが、仕方がない。頑張れ、環くん。私にはエールを送ることしか出来ん…
話も一段落付き、ふと窓の外を見ると、先ほどよりも太陽の日差しが赤みがかっていた。日が長くなって感覚が鈍ってくるが、一般家庭ではもう夕飯の時間である。
「それじゃそろそろ私も失礼しようかな」
「すいません、お付き合いいただいて」
「いや、なんてことないよ。私に力になれることがあれば、また声を掛けてくれ」
「はい、ありがとうございます」
「ところで、聞きたいことがあったんだが、もしかしてここのケーキは『オーレン』のケーキを取り扱っているのかい?」
「えぇ、そうなんです。このお店でケーキセットがあれば、もっとお客さんに喜んでもらえるかなって思って。でも店の設備では限界があったんで、とある付き合いで『オーレン』さんに発注をさせてもらってるんです」
「なるほどな。確かに、ケーキセットは私も楽しませていただいているよ」
「ありがとうございます」
「環くんの発案で?」
「はい」
「しかしまぁ、そんなに考えてしっかり行動できるのに、企業の人事担当者の目も節穴だらけだな」
立ち上がると同時に、椅子の足が地面と擦れる音が店内に響いた。