夜がな夜っぴて考え事…

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散文14『環くん』

 休日。運動も兼ねて、私は駅を目指して歩いていた。すると前方に、信号待ちをしている環くんの姿を認めた。環くんとは、うちの近所にある『喫茶ネロ』のバイトの男の子である。特に親しいわけでは無いが、人伝てに大学生だという話を聞いたことがある。いつも店の中では、白いワイシャツに黒のソムリエエプロンをしていて、年齢よりも大人びて見えていたが、今日は私服である。私服姿を見ると、年相応といった様子だ。ジーパンにTシャツ、アウトドアメーカーのカバンを背負って、そのカバンには、恐らく羽織っていたのであろうシャツが括り付けてある。

 信号が変わる前に環くんのところに着いた私は、気付かないフリをするのも失礼だと思い、声を掛けた。

「こんにちは」

 突然声を掛けられた環くんは、驚いた様子で振り向いた。私の顔を確認すると、どうやら知った顔だと気付いたようだ。

「あ、こんにちは」

 恐らく環くんは私の名前を知らないであろう。

「東雲です」

「あ、環です。いつもご利用ありがとうございます」

 咄嗟に“ご利用ありがとうございます”と出てくるとは、なかなか出来る男である。私は少々感心した。

 感心と同時に信号が変わり、私たちは何となく足並みを揃えて歩き出した。

「これから学校ですか?」

「はい、そうです。S市の大学に通ってて」

「ということは、駅から電車で?」

「はい」

「なるほど。私も今から駅前に用事があって。駅までご一緒していいかな?」

「はい、大丈夫です」

 ハキハキとした受け答えからも、彼の好青年ぶりが伝わってくる。

「東雲さんはこの辺にお住まいなんですか?」

「いや、ちょっと離れているな。市民病院のほうだよ。環くんはこの辺かい?」

「はい、あっちの、国道沿いのホームセンターの裏のほうです」

「へぇ、ホームセンターのほうか」

 環くんが指さした方角は、私のアパートとは反対方向であった。

「大学まで通うの、大変だろう」

「えぇ。でも、もう慣れました。今四年生なので、授業もほとんどないですし」

「ほう、四年生か」

 私は「大学四年生」という言葉を噛み締めながら、自分が四年生だった時のことを思い出そうとした。楽しい思い出はたくさんあった… はずだが、十年以上前のことで、すんなり思い出せなくなっていることが悲しい。

「四年生ということは、就職は? もしくは院に進むとか?」

 私は何気なく問いかけた。すると、環くんの表情が曇った気がした。

「就職するつもりなんですけど、まだ一つも内定貰ってなくて。まだ就活中なんです。なかなか決まらなくて」

「そうか…」

 おっと、これは地雷を踏んでしまったか。私は言葉の続きを考えあぐねた。四年生のこの時期で内定が無いというのは、精神的に辛いな。しかし、環くんのような人柄なら、内定の一つや二つあってもおかしくない気もするが。

「今日も大学の事務局に行って、現状報告と相談に行ってこようかと思って」

「そうだったのか。まぁ、環くんが今の状況を悲観しているか、楽観しているかは分からないが、就職活動が人生ではない。どちらにしてもだ」

 とりあえず、断定的な発言は避けることにした。少々無責任な気はするが、他人が安易に踏み入ってはいけない部分だろう。

「そうですね。自分でも今の状況を、一度冷静に考えてみようと思っています。ちょっと最近、考え過ぎなところがあって」

 どうやら思いのほか、私の言葉を受け入れてくれたようだ。

「そうだな、考えが詰まったら一度立ち止まって、そしてまた考えればいい」

「はい、ありがとうございます」

 そう言った環くんの表情は、幾分か明るくなったようだ。

「まぁ、ただのおっさんの独り言だと思っててくれ」

 本当に大したことを言ったつもりは無いが、彼の一助となったのなら幸いだ。

 

 その後、駅に着くまでの数分間は、私たちは何でもない雑談をしながら歩いた。

「それでは、僕はここで失礼します」

「あぁ、気を付けて」

 環くんは頭を下げ、駅構内へと入っていった。駅までの何気ない会話の中にも、環くんの人となりを垣間見た気がした。本当に好青年である。ぜひ環くんには幸せになってもらいたいものだ。そんな想いで、私はその後姿を見えなくなるまで見送った。

 そして私は、いざ本日の目的地へと向かうべく踵を返した。

 そう、今日の本来の目的は、ケーキ屋である。先月の“ミルフィーユ事件”のリベンジのため、まずは自宅で練習しようと、駅近くにあるケーキ屋に来たのである。ネット検索では、かなりの高評価の店であった。まさかそんなケーキ屋がこの街にあったとは。

 駅前から少し離れて、とある路地に入るとその店はあった。店構えは普通の住宅のようである。というか、住宅の一部を店舗に改装したような感じだ。看板は無く、木の扉に小さく店名が刻印されている。スマホのマップが無ければ、恐らく気付かずに通り過ぎてしまうだろう。

 店の名前は『オーレン』。木の扉を開けると、静かにドアベルが鳴った。中から魔女でも出てきそうな雰囲気である。一部のSNSの情報によると、ここの店主は魔女だという噂だ。風貌がそれっぽかったり、魔法がかかっているのではないかというほど、ここのケーキは美味いらしい。それで魔女というワードが付いたようだ。色々な意味で興味深い。

 私は店内のひんやりとした空気を感じながら、そろりと中へと入っていった。