夜がな夜っぴて考え事…

趣味で自由に小説書いてます

散文28『健康』

 我が社では秋になると健康診断がある。その頃になると、周囲ではちらほらと健康の話題が上がってくる。半分くらいはやれ煙草で肺が真っ黒だとか、やれ飲み過ぎで肝臓の調子が悪いだとか、武勇伝的に語っている不健康自慢なのだが、それでもみんな何となく周りの様子を窺って、自分の健康状態のランキングを探っているようにも見える。周りが健康な人だらけでは、不健康は自慢でもなくただの恥になってしまうからである。

 かく言う私も、健康に関しては無関心というわけではない。そろそろ40歳ということもあるし、お腹周りも少し気になってきたところである。食べ物にも気を付けないといけないだろうし、運動も少しはやらないといけないだろう。と、分かっているものの、なかなか行動に移せないのが世の常である。若い頃の感覚で食事をしてしまうこともあれば、ワンフロア上がるのにもエレベーターを使ってしまうことは多々ある。多少の罪悪感はあるが、気楽さには勝てない。

 とは言え、そろそろそんなことも言っていられない。意識して健康に気を配らねば。

「ハトソン君は運動とかやっているのかい?」

「運動ですか?」

 私からの突然の問いに、はてなマークを浮かべたハトソン君であったが、すぐに質問の意図を理解したようである。

「あぁ、そろそろ健康診断ですね」

「お察しの通り」

「特に普段から何かやっていることはないですね。学生時代も運動部とは無縁の生活でしたし」

「そうか。まぁ確かに運動が出来そうには見えないが… いや、失礼」

「いえ、見た目通りなので失礼ではないです」

「それでは何か健康とかに気を付けていることは?」

「気を付けていることですか? そうですね… 運動という点で言えば、散歩は時々します。元々歩くのが好きなので」

「なるほど、散歩がウォーキングのような働きをしているということか」

「食事もそこまで食べるわけではありませんし、間食もあまりしませんし。大体の摂取カロリーは基礎代謝と散歩で消費出来ているのではないでしょうか」

「それは理想的なサイクルだな」

 ハトソン君は自慢げに頷いた。

「私の場合は近くのコンビニでさえ車で行ってしまうしな。寝る前に小腹が空いて何か食べることもしばしばあるし、これでは消費カロリーが追いつくわけがないな」

「摂取を抑えるか、消費を増やすかですね。大体30分のランニングで2300キロカロリー、つまりご飯一杯分の消費です。逆に言うと、ご飯を一杯分我慢すればそれ相当の運動をしたのと一緒ですね 」

「なるほど、理論上はそうだな。つまり運動をして更に食事も抜けば倍の効果か…」

 うーむ、どちらにしてもストレスが溜まりそうである。他に何か良い方法はないものか…

「まぁ、単純に食事を抜くのは健康という点では良くないとは思いますが」

 ハトソン君の忠告をよそに、私は考えた。運動はコンスタントにやらなければいけないだろうから、平日も、となるとなかなか大変である。ましてや、先日のランニングの件もある。まずは走れる体作りからしなければいけないと考えると先の長い話になる。食事も急に一食抜くのは現実的ではない気がする。かと言い、量を減らすのも気が進まない。となると…

「よし、決めた。まずは間食を減らそう」

「間食をですか?」

「あぁ。会社でもついつい休憩時間にお菓子をつまんでしまうしな。それをやめよう。それと家に帰ってからの夜の間食。寝る前の間食をやめにする」

「思い切りましたね」

「まぁこれくらいしないと何も変わらんだろう。運動は段階を踏んでやっていくことにする」

「分かりました。健闘を祈ります」

「ありがとう、ハトソン君」

 我々はどちらからということもなく、力強く握手を交わした。

「そういえば今思い出しました。最近私、美味しいケーキ屋さんを見つけたんですよ。隠れた名店っていう感じなんですけど。センパイにも感想を伺いたいので今度買ってきますね」

「うん。それじゃ今の握手は何だったの?」

「え?」

 ハトソン君は、何のことですか? と言わんばかりの表情を見せた。まことに恐ろしい後輩である。私は少々怒りを覚えた。

「いや、たった今言ったばかりだろう。間食はやめると。そんな私に対してケーキとは、残酷過ぎはしないか?」

「すみませんでした。ではケーキの話は無かったことに…」

「いや待て。聞いてしまったものは仕方がない」

「はぁ」

「間食をやめるのはそのケーキを食べてからにしよう。それからでも遅くはない」

 ケーキを前に、私の少々の怒りなど皆無なのである。

「分かりました。では週明け早々に持ってきます」

 ハトソン君は指先をピンと伸ばして敬礼をして見せた。私はそれに黙って頷いた。

 私はこの瞬間、いわゆる『ダイエットは明日から』を体感したのであった。なるほど、そういうことか。これなら仕方がない。今までダイエットを始められない人たちに対して、ただ意志が弱いのだと冷たい視線を送っていたが、これは意思が弱いという単純なことではない。これは誘惑に負ける弱い意志ではなく、美味しいものを求める強い探求心なのである。彼らはこの探求心と戦っていたのである。やはり、自分が体験したことのないことを無下に否定することは良くない。ダイエットを始めるにあたり、このことを学んだ私は人として一つ成長できたような気がした。

 ありがとう、ダイエット。ありがとう、ハトソン君。

 と、自分に言い訳をして、私は来週のケーキを楽しみに待つのであった。