散文27『積ん読』
つい先日、秋分の日を迎えた。気付けば朝晩はだいぶ涼しくなってきたし、陽が落ちるのも早くなったものだ。
そんな秋の夜長には本を読みたくなってくるものだ。お盆から湧いていた読書欲はまだかろうじて残っていたが、如何せん夜は夜で眠くなる。読みたい衝動で買ってしまった数冊の本たちがまだ本棚の一角に平積みされていることに、目を背ているわけではない。だがしかし、なかなかそこまでたどり着かないのが現状である。
「というわけで、しばらく読書本には事足りている状況なのだよ、ハトソン君」
「そういえば最近は会社でも本を読んでいませんね」
「あぁ、元々まとまった時間に読みたい派であったからな。欲がある程度治まってくると、ちょっとした空き時間ではなかなか本に手が伸びん。一応カバンの中には入れて持ち歩いているんだがな」
「そうでしたか。それでは本棚の本たちも不憫ですね。いわゆる“積ん読”状態ですね」
「つんどく状態?」
私は思わずハトソン君の言葉をオウム返しした。
「読まずに積んだままの本の状態のことです。読もうと思ってそのままにしていることへの皮肉ですね。『積む』に『読む』と書いて“積ん読”。『積んでおく』と掛けてあるんです」
「なるほど、巧いこと言ったなぁ」と、自分のことは一旦棚に上げて感嘆した。
「この言葉自体は明治時代からあったそうですよ」
「そんなに前から? 昔の人たちも粋なことを言う」
「昔から人間は大して変わらないということですね」
「確かに」
時代が変わり生活様式が変わっても、性分というものはなかなか変わらないようである。
「ちなみに最近は『包ん読』という新しい言葉がネットを騒がせたようです」
「包ん読とな」
「お察しの通り、包装されたままの本をそのまま放置しておくことです。買って開けもしない状態から、『積ん読』の上位互換のような扱いですね」
「それは罪深いな。私はまだ袋から出して置いてある故、罪は軽い」
「罪の程度に重いも軽いもないと思いますが…」
「むむ…」
返す言葉は無し。
「その『包ん読』という言葉につられて、その後は『○○読』を使っての大喜利大会になったとか」
「ほう、大喜利大会。ちなみに他の回答は?」
「分かりません。そこまでは追いませんでした。キリがありませんので」
私の疑問はあっさりと叩き落された。
しかし、ハトソン君の判断は正しかったかも知れない。私なら追い続けて気付いたら朝だったパターンかも知れぬ。そして残るものは特に何もないという結末だ。考えただけでも恐ろしい。しかしその時はそれに夢中になってしまうものなのだ。仕方がない。
「ちなみにハトソン君はそういう、買って読んでいない本とかは無いのかい?」
「私は無いですね。読みたい本は一冊ずつ買います。買いだめしておくのは、なんだか本たちを待たせてしまっているようで何となく落ち着きません。私は知識を頂く側の人間なので、その知識たちを私のような分際で待たせるわけにはいきません」
なんとも大それた言い方である。明らかに私に対しての当て付け感が半端無い。表情には出ていないが、ハトソン君の心の表情は確実に口角が上がっているに違いない。なめられたものである。
しかし私も大人である。ここはスマートに返すが良し。
「まぁまぁ、そんなに卑下するな、ハトソン君。我々も対価を支払って手元に置いてあるわけだし、考え過ぎじゃないかな。欲があってこその“積ん読”だ。欲もまた、知識たちへの敬意ではないか」
「…確かにおっしゃる通りですね。考えが少し偏屈になっていたようです。失礼しました」
「いや、謝るほどのことでもない」
何とかこの場は納得してもらえたようである。私はホッと胸を撫で下ろした。
しかし私はそう言いながらも心の中で、すぐさま残った本たちを読み終えてやろうじゃないかと闘志を燃やしたのだった。結局、私もまだまだ大人げない。