夜がな夜っぴて考え事…

趣味で自由に小説書いてます

散文34『BAR SATIE』

 夜更かしはしない、と心に決めたものの、ついつい夜の街を彷徨ってしまうのはストレス社会を生きる戦士(サラリーマン)の性なのかも知れない。

 私は残業終わりに渡瀬と飲んだ後、別れて一人駅前をふらついていた。今から素直に帰れば十分な睡眠時間は取れるのだが、ふとあの店のことを思い出してしまったのが悪かった。私の足は自然と『BAR SATIE』へと向かっていた。

 店に着き扉を開けると、まだ日が変わる前であったが客は一人しかいなかった。一瞬デジャヴかと思ったがそうではなかった。たまたま前回訪れた時にいた客が今日も同じ席に座っていただけだった。

「いらっしゃい」と声を掛けてきたマスターは今日もまた妖艶な雰囲気を漂わせていた。

 まだまだ夜はこれからという時間帯にも関わらず、客は一人。場所が駅から少し離れているということはあるにせよ、その一人の客が前回も今日も同じ人物とは、この店は儲かっているのだろうかと心配になった。しかし私にとっては客で賑わっているよりも静かに飲めるこの空間が好きなのだから、あまり繁盛されても困る部分はあるのだが。

 出されたおしぼりで手を拭きながら横を見ると、前回もいた女性はこれまた前回同様カクテルをじっと見つめていた。

「今日は何にします?」と声を掛けられ前を向き直した私はダイキリを頼んだ。早速マスターは手際よく作業を始めた。

 流れるような手さばきに、ついつい私の視線は釘付けになってしまった。もちろんプロだから当たり前の技術なのだろうが、この人の動きは魅せるものがある。エンターテインメントと言ってしまうと薄っぺらい表現になってしまうが、ただ作るという行為と一線を画していることは間違いない。

 見惚れている間にダイキリは出来上がり、私の前に出された。お礼を言って早速一口飲んだが、やはり美味い。

「このお店は長いんですか?」

「この店ですか? 10年くらい経ちますかね」

 声色もまた良い。まだ来店二度目であるが、マスターの性別うんぬん関係なく惚れてしまいそうである。

「ところでこの曲、聴いたことはあるんですが、何という曲なんですか?」

 私は天井を指さし、マスターに聞いてみた。

「この曲は『ジムノペディ』っていう曲ですよ。時々CMやドラマのBGMなんかで使われているので、一度はどこかで聴いたことあるって人は多いと思いますよ」

「『ジムノペディ』ですか。曲名はピンと来ないですけど、確かに何かのドラマで聴いたことがあるような気がします」

エリック・サティという作曲家のピアノ独奏曲です。気持ちが穏やかになって好きなんです、この曲」

 確かに、聴いていると心が落ち着く気がする。この店の雰囲気にはピッタリの曲である。しかし、エリック・“サティ”とは…

「もしかして、ここの店名はエリック・サティから取っているとか?」

「えぇ、そうですよ」

 なるほど、そうだったのか。これで合点がいった。

「あぁ、“サティ”だったんですね。いや、初めてここに来た時、看板の文字を見ててっきり“サチエ”だと思ってました」

「サチエ?」

「看板に『BAR SATIE』と書いてあったので」

 マスターは少し考える素振りを見せた後、「あぁなるほどね」と言った。それと同時に奥に座っていた女性が静かに吹き出した。そちらに目をやると、女性は肩を揺らして笑いを堪えている様子だった。

「サチエ… ブハハハッ」

 その女性はいよいよ天井を見上げ、声を出して笑い出した。

「ちょっ…」

 私はその女性とマスターを交互に見たが、マスターはそこまで笑っておらず、むしろ女性の様子に苦笑いをしているくらいだった。

 さすがに私も「笑いすぎでしょ」とツッコまずにはいられなかった。

「ははは、ごめんごめん。だって、サチエって。誰よそれ」

 まだ笑いを堪えながら答える女性に僅かながら怒りを覚えたが、そこは大人としてグッと耐えた。

「ちょっと、ミナちゃん。失礼よ」

 なだめるマスターの声に、徐々に肩の揺れは収まっていく。

「…ごめんなさい。でも… 面白過ぎる…」

「いや、だから笑いすぎ」

「私がサチエってことかしら?」

「マスターが?… サチエ?… ブハハハッ」

「ちょっとマスター」

 火に油が注がれ、事態は一向に収拾がつかなかった。

 

 しばらくして、ようやく店内に落ち着きが戻った。

「いやぁ、久々に笑ったわ。ありがとう」

「いや、ありがとうって」

 その女性はマスターから『ミナちゃん』と呼ばれていた。今までは離れた席からチラチラとしか見ていなかったが、面と向かってみると、とても綺麗な人である。年齢は私より少し上だろうか。年齢不詳の美しさというよりも年相応の美しさを感じた。

「最近あんまり大声出して笑ってなかったから、スッキリしたわ」

 確かに前回も今日も何やら負のオーラを纏っていた感はあったが、それが少しでも薄らいだのなら私の恥も報われるというものだ。

「あんた、あんまり見ない顔だね。最近来出したの?」

「えぇ、まぁ」

 ドラマでしか聞いたことのないようなセリフをサラリと言ったこの女性はいったい何者なのだろう。見た目は綺麗であるが、笑い方といい、今の物言いといい、言動は豪快だ。

「マスター、今日は何だか気分がスッキリしたからこの辺で帰るよ」

 そう言って女性は立ち上がり、隣に置いてあったカバンを漁り始めた。そして何かを見つけ、それを口に挿むと、壁に掛けてあったコートを羽織り、カバンをぶら下げて私に近づいてきた。

「はい、これ。もし良かった来て。私いるか分からないけど、いたらサービスするから」

 机にポンと置かれたのは名刺だった。私がそれに視線を落としている間に、その女性はマスターと挨拶を交わし、颯爽と店を出ていった。

「あれ、会計は?」

「あぁ、いいのよ。次来たとき倍払ってもらうから」

 フフフと笑いながら、先ほどの女性が飲んでいたグラスを下げるマスターの姿からは、その言葉が冗談であるのか本音であるのか私には察しがつかなかった。

 私は名刺を手に取って、それをまじまじと見た。

「『オーナー:黒部美奈子』…」

 なるほど、それでミナちゃんか。

 それにしても何のオーナーだろう、と名刺の上段を見た私は驚いた。

「『ケーキ工房 Oren』… ん、オーレン!?」

 思わず出た声にマスターが気付き、「驚きよねぇ。あんなのが、あんなに美味しいケーキ作るんだから」と言うのを片耳で聞きながら、私はあの女性が出ていった扉をぼんやりと眺めた。

「あれが魔女…」

 私は「先ほど言っていたサービスとやらは、もちろんケーキ一個無料とかの類であろうな…」と思わずにはいられなかった。