夜がな夜っぴて考え事…

趣味で自由に小説書いてます

散文21『木漏れ日と陽炎③(完)』

 図書館に着いたのは、一昨日よりも少し早い時間である。何も確証は無いが、先日見かけた女性がもしかしたら同じような時間帯に来ることくらいしか、私が希望を託せるものは無かった。

 私がしばらく車の中で待っていると、一台の車が入ってきた。運転席を注視すると、そこに座っていたのはなんと、先日見かけた女性であった。私は思わず目を見開いた。期待はしていたものの、まさか本当に会えるとは思っていなかったからだ。これは偶然か、奇跡だと天を仰ぐべきか。しかしそんな間もなく、私はドアノブに手を掛け、車を降りた。

 私は、今まさに駐車しようとしている車にゆっくりと近づいた。降りたとたんに、見知らぬ男性から声を掛けられたら、やはり驚くだろうか。不審にも思うだろう。しかし、私としても背に腹は代えられない。このチャンスを逃したら、一生出会えることは無いだろう。私はタイミングを見計らいつつ、ゆっくりと降りてきた女性に声を掛けた。

「すみません」

 緊張と少しの躊躇いがあってか、私の声は思いもよらず、か細くなった。

「…はい」

 訝しげな表情を見せたその女性は、今日はワンピース姿ではなかった。

 ドアを閉め、振り返った女性は、だいぶ若かった。大学生くらいだろうか。

「すみません、急に声を掛けてしまって。私は東雲といいます」と言って、私は名刺を差し出した。少しでも怪しいものではないことを証明するためだった。

「はぁ」

 目の前の若い女性は名刺を受け取り、まじまじと見ていた。当然状況が飲み込めない様子だった女性に、私は言葉を重ねた。

「間違っていたら申し訳ないんですが、もしかして、松原先生のご家族の方ではないですか?」

 私がそう言うと、顔を上げた女性は明かな反応を見せた。不躾な質問だと思ったが、いろいろ考えた挙句、この質問くらいしか思い浮かばなかった。

「私、松原先生の生徒だったんです。二十年以上前なんですけど…」

 私の言葉に信憑性があったわけではないだろうが、私の言葉を受けて、女性は口を開いた。

「確かに私の母の旧姓は松原で、教師をやっていたとは聞いたことがありますけど…」

 どうやら女性は、松原先生の娘さんだったようだ。私の予想は概ね当たっていたようである。少しホッとしたと同時に、首筋を伝う汗に気付いた。今日も日差しが強い。

 女性は少し考える仕草を見せたが、すぐに顔を上げた。

「ちょっと待っててもらっても良いですか? 頼まれた本を返してくるだけなので」

 思いもよらず、良い返事が返ってきた。

 私が「えぇ、大丈夫です。待ってます」と言うと、女性は軽く頭を下げ、図書館のほうへ行ってしまった。

 

 私は駐車場から見える、木陰に覆われたベンチに座り、娘さんを待った。

 しばらくして図書館から戻ってきた娘さんは、私の存在に気付くと、小走りで駆け寄ってきた。

 私は立ち上がり、彼女を迎えた。

「すみません、急に声を掛けてしまって」

「いえ、大丈夫です」

 私は娘さんをベンチに促し、並んで座った。

「実は一昨日、ここであなたを見かけたんです。その時は声を掛け損ねてしまって。そもそもその時は見覚えがあるけど誰だろうって程度だったんですけど、家に帰ってよく考えたら、記憶の中の松原先生だったんだってことに気付いたんです」

 そう言うと、彼女は首を傾げた。

「すみません、私、ここに来たのは今日が初めてなんですけど…」

「え、でも確かに、一昨日の同じくらいの時間に、図書館から出てくるあなたを見かけてんです。だから今日、声を掛けさせてもらったんですが…」

 どういうことだろう。確かに私はこの女性を見かけたのだ。そうじゃなければ、確証を持って声など掛けられない。

「花柄のワンピースを着ていました。背丈もあなたくらいで」

「花柄…」

 そこで娘さんは黙り込んだ。

 私は一昨日のことを思い出そうとした。図書館から出てくる女性。花柄のワンピース。去って行く後ろ姿。どれもまだ鮮明に記憶に残っている。見間違いではない。実際にこうして松原先生の娘さんという人と出会うことが出来たのだ。

 彼女はおもむろに口を開いた。

「もしかして、東雲さんは母の“さいご”の生徒さんですか?」

「“さいご”?」

「以前、母から聞いた話なんですけど、母は私を産む前にこっちで教師をしていたんです。でも、おばあちゃん… あ、母のお母さんです。そのおばあちゃんが体を悪くして実家に帰らなきゃいけなくなって、それでその学校をやめることになったって」

 どうやら松原先生が学校を辞めた理由は、当時聞いたものと同じだったようだ。

「元々臨時で受け持ったクラスだったけど、本当は卒業するまでみんなと一緒に居たかったって言ってました。その時、当時の名簿と写真を見せてもらったんです。その時の名簿に確か東雲って名前があったような気がして。ほら、珍しい名前じゃないですか。それで、もしかしたらあの時の生徒さんだったのかなって」

 自分の名前がこんなところで功を奏すとは。

「あと、その時見せてもらった写真に写っていた母が着ていたのが、花柄のワンピースだったんです。もしかして、当時の記憶とごっちゃになってるとか…」

 そうか、言われてみれば、当時松原先生はよくあのワンピースを着ていた気がする。

 おぼろげな記憶を掻き分けて当時のことを思い返していると、一筋の風が吹いた。

「あ、この香りは…」

 風に乗って香ったのは、一昨日感じた香りと同じものだった。

「あ、いい匂い。月下美人ですね、これ」

 どうやら娘さんも気づいたようだ。

月下美人?」

「えぇ、花の名前です。この時期の花なんですけど、でも夜に咲く花なのになんでだろう。誰かの香水ですかね」

「詳しいですね」

「母も好んでつけてるんです。それでちょっと詳しくなっちゃいました」

 そう言って微笑んだ表情は、当時の松原先生に似ていた。

 その瞬間、私の中で過去の記憶がフラッシュバックした。

「そうか…」

 その時私の中で、モヤモヤしていたものがパッと晴れた気がした。

「どうしたんですか?」

「いや、当時のことをちょっと思い出して」

 私は、娘さんに当時のことを話した。松原先生はとても優しい先生だったこと。みんな松原先生が好きだったこと。テストの裏の、先生とのやり取りのこと。そして何より、私が最初に手に取った本は、松原先生が勧めてくれたものだったこと。

「そうだったんですか。きっと母が聞いたら喜ぶと思います」

 娘さんは優しい笑顔をしていた。

 私は確認したいことがあった。

「すみません。こういうことを聞くのも失礼なんですが、先生は今…」

「母は今、N市に住んでいます。今日も庭に出て野菜の世話でもしてるんじゃないですかね」

 フフフと笑う娘さんを見て私はドッと安心した。

「良かった。ご存命なんですね」

「ご存命?」

「あ、いや。もしかしたら私が見たのは幽霊だったんじゃないかと… それに、さっき私のことを“最期”の生徒と言ってたので。」

「あぁ。“最後”っていうのはあれです。母は実家に戻って、おばあちゃんの介護をするために一旦先生を辞めたんです。その後も、父との結婚、出産と続いて、結局そのまま。だから東雲さんたちが、教師として最後の生徒さんだったらしいんです。大丈夫ですよ、今も元気にやってます」

「それは良かった。失礼しました。縁起でもないことを」

「いえ。でも元気とは言え、もう還暦も近いですから。熱中症に気を付けるように言っておきます」

「そうですね。私からも、お体には気を付けてとお伝えください。それと…」

 当時言えなかった言葉が、今ならすんなりと言える。ようやく、伝えられる…

「先生に、『ありがとうございました』と。あの時、図書館で本を勧めてくれて。私の拙い言葉を褒めてくれて。先生との出会いは、間違いなく私の人生を豊かにしてくれました」

「…分かりました。絶対に伝えます」

 そう言って娘さんは笑顔を見せた後、視線を空に向けた。

「実は… 私も教師を目指してるんです。別に母が先生をやってたからってわけじゃないんですけど。でも今日、東雲さんの話を聞いて、私も母のような先生になりたいなぁって思いました」

 彼女ははにかんだ。その表情は、やはり松原先生に似ていた。

 その視線の先には何が見えているのだろうか。それはお母さんかも知れないし、もしかしたら、想い描く未来の自分の姿かも知れない。

「大丈夫、なれますよ」

「ありがとうございます」

 その時、生温い風が、汗の滲んだ首筋がさらっていった。アスファルトにはまだまだ強い日差しが照り付け、地面の境界を曖昧にしていた。風に揺られ、木々が葉擦れの音を奏でる。

「でも良かった、伝えられて。当時伝えられなかったことが、私の心残りだったんです。でもそれも、ついさっきまで忘れていました。大事なことだったのに」

「もしかして、それを思い出させるために母が東雲さんの前に現れたとか?」

「いや、まさか。いや、あり得るか?」

 私たちは肩をすくめて笑った。

「でもきっと、全部繋がってるんですよね。東雲さんが母と出会ったことも。母に感謝してくれたことも。そして今、こうして私と出会ったことも。私に、やっぱり先生になりたいって改めて思わせてくれたことも。全部」

 なんとも壮大な話のようだが、今の私には身に染みて理解できる気がする。そして今この瞬間も、誰かと、どこかと、繋がろうとしているのだろう。

「そうだ、今度母に会いに来てください。そしてさっきの言葉、直接言ってあげてください」

「えぇ、そうですね。ぜひお会いしたいです」

 そう言って、私は額の汗を拭った。