散文44『決断』
人は一日におよそ35000回の決断をしている、という話を耳にした。信憑性は確認しようがないとして、確かに無意識のうちに人間は様々な決断をして一日を過ごしているのかも知れない。
「私もその話は聞いたことがあります」
さすがハトソン君。この手の情報は入手済みであったか。
「35000回と言われると何だか信じがたい話ではあるが、先ず朝から顔を洗うか、トイレに行くか、というところから決断作業は始まっているらしい」
「そうですね。一日を秒で換算すると86400秒ですから、単純計算でも2~3秒に一度は決断している計算になります。睡眠時間を覗いたらそれ以上ですね」
「なるほど、秒換算まではしたことが無かったが、そう言われると恐ろしい頻度だな」
2~3秒に一度となると、もはや会話をするだけでも、どの言葉を言うかを無意識のうちに選んで話しているのだろう。こうして脳内で思考を巡らせている間にも、私は幾つもの決断をしているに違いない。
「会話をするだけでも、言葉選びから幾つもの決断をしているのでしょうね」
おっと、まさかハトソン君と考えが被るとは珍しい。私は少し誇らしく感じてしまった。
「そうだな。そうでなければ一日に35000回という数字は実現不可能なレベルだろう」
「そうですね。あ、そう言えば昨日頼まれていた資料でしたが、データで渡しますか? それとも紙のほうがいいでしょうか?」
「あぁ、あの資料か。あとでデータで送っといてくれ」
「分かりました。しかし、現代人は昔に比べて決断の回数は増えているでしょうね。ネットで物事を簡単に調べられる分、それが正しい情報か、自分で判断しなければなりませんし」
「確かに、情報が溢れている分、決断に迫られているわけだな」
「便利な世の中というのも善し悪しですね。あ、ネットと言えば、この前センパイが読んでいた小説の作家が新作を発表してましたね。知ってました?」
「お、そうなのか。いや知らなかったな。今度検索してみよう」
「ぜひ。あ、すみません。話が脱線してしまいました」
「いや構わんよ」
「ちなみに決断をし過ぎると、決断疲れという状況に陥るそうです」
「決断疲れ?」
「はい。その状態になると、暴飲暴食や衝動買いと言った行動に出やすいようです。まさに正しい判断が出来なくなる状態ですね」
「なんと、それは恐ろしいな。しかし、一日に35000回も決断をしていればそうなってしまうのも分かる気がする」
「いかに日常の中で判断・決断する回数を減らせるか、ということですね」
「そうだな。きっと作業のマニュアル化やルーティン化が、それに効果的なんだろう」
「確かに、そうですね。あ、センパイ。カップが空いてますね。コーヒーでも淹れてきますか?」
「あぁ、そうだな。悪いな、頼むよ」
「いえいえ。私も新しいのを淹れてこようと思っていたので。砂糖はどうします?」
「砂糖は無しで」
「分かりました。では」
そう言うとハトソン君は自分のカップと私のカップを持ち、席を立った。
私はハトソン君の後姿を見ながらふと思った。今ほどの会話の中で私は幾つの決断をしたのだろう。何度かの決断を意図的にさせられたような気がしないでもないが、恐らくそんなことなど気にもならないほどの決断回数をこなしたのだろう。
しかしそれを踏まえて考えるに、ハトソン君との会話が会社の中で一番疲れるかもな、と思ってしまったのであるが、決してハトソン君との会話が嫌だと言っているわけではないので悪しからず。