散文52『52ヘルツの鯨』
52ヘルツで鳴く鯨がいる。その声は他の鯨に比べて遥かに高い周波数らしい。声の記録は1980年代からあるが、その姿はまだ確認されていない。分かっていることは、その周波数で鳴く鯨は世界で一個体しかいないということである。それ故に、その鯨は『世界で最も孤独な鯨』と称されている。
この話を聞いて、多くの人は「寂しそう」とか「可哀そう」という感情を抱くかも知れない。しかし私はホッとした。その鯨の声は、確かに我々に届いたのである。姿は確認出来ていないものの、その声に気付いたのである。この世界で誰にも気付かれずに世を去ったものが幾つあるかは知らない。無論、知る術もない。しかしそれとは違う。誰かに気付いてもらえた。それだけで私はなんだかホッとしたのである。
私は勝手に、その鯨と自分を重ねた。私もまた、誰に気付かれるわけでもなく声を上げているだけなのかも知れない。それに対して私自身、寂しいとも悲しいとも思わない。ただ、もし誰かに私の声を聴いてもらえたら、素直に嬉しいと思う。
私の声は、いつか誰かに届くのだろうか…
私は最後の『散文』を打ち終え、パソコンの電源を切り、立ち上がった。「さて」と発した声が、一人の部屋に静かに響く。私は身支度を整え、ジャケットを手に取り部屋を出た。最終話を書き終えたら、『喫茶ネロ』でミルフィーユを食べようと決めていたのである。今回のミルフィーユは“リベンジ”ではなく、“お祝い”である。
自転車に跨って店に向かっている道中、程良い風を感じながら達成感に浸っていた。思わずスピードを出したら、思いのほか肌寒くなってクシャミが出た。店に着いたらまず温かいコーヒーで一息つこう。
店に着いて扉を開けると、第一声は環くんだった。久しぶりに聞く声だったが、以前に増してマスターが板についてきたように思われる。というのは少々親バカすぎるか。そして、その次に私の耳に入ってきたのは、どこかで聞き覚えのある声だった。
「いらっしゃいませ」
そう言い放たれた言葉は、まだ躊躇いを含んでいるように感じた。その声がする方を見ると、そこにはハトソン君の姿があった。
「な、何故ここに?」
驚いた私は思わず指をさしてしまった。慌ててその手を引くと、ハトソン君は表情を変えず答えた。
「4月からここでお世話になります。今は研修中です」
確かにハトソン君は3月いっぱいで我が社を退社する身分であるが、しかしまだ在籍中である。はたして研修中という言葉を使っていいものかと一瞬考えたが、そんなことはどうでも良かった。
「ハトソン君が、ここで?」
「はい」
なんともややこしいことになった。近所の憩いの場に、まさかハトソン君とは。
私が密かに動揺していることはお構いなしに、ハトソン君は私をカウンター席に誘導した。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」
流暢な口調とともに私の前に出されたメニュー表を、私はしばし手を付けずに眺めた。
そんな私の姿を見かねたのか、カウンターの中にいた環くんが声を掛けてきた。
「すみません、報告が遅くなってしまって」
「いや、別に。私に報告なんて要らないんだが…」
と言ったものの、正直ちょっとくらいは教えておいてくれも良かったのにな、と思った。
詳しい話を聞きたいところであったが、嬉しいことに店は繁盛していて、なかなか声を掛けるタイミングが無かった。私はいつも通りコーヒーとケーキセットを注文して、本来の目的である小説の完成を一人で祝った。
ケーキを食べ終え、コーヒーの香りを楽しみながら二人の姿を何となく目で追っていると、二人ともテキパキと働いていて相性も良さそうである。もしかしてこの先、二人はこのまま付き合うことになって、あわよくば夫婦となりこの店を続けていくのではないだろうかと思った。そしてそれは、大して間違いない未来だろうとも思った。
あまり長居しても申し訳ないと思い、私はコーヒーを飲み終え、早々と店を出ようと席を立った。
「ごちそうさま」
立ち上がりそう言うと、カウンター内でせわしなく動いていた環くんがこちらを向いた。
「もう帰られるんですか?」
「お店も繁盛しているようだし、長居しても悪いからね」
「すみません」
「また来るよ。今度ゆっくり話そう。それじゃ」
「はい、ありがとうございます」
そう言いながら決して手を止めることなく、環くんはカウンター内を動き回っていた。
席を離れ、レジカウンターに向かうと、それに気づいたハトソン君が後をついてきた。
「ありがとうございます。800円になります」
「ごちそうさまでした」
「また、来てください」
「もちろん。一応ここの常連だからね」
「ありがとうございます」
ハトソン君はニコリと笑顔を見せて、静かに頭を下げた。私も笑みを返す。どうやら、ハトソン君との付き合いはまだまだ続きそうである。
踵を返し、ドアを開けるとドアベルが鳴った。
「ありがとうございました!」
食器同士がカシャリと当たる音とともに、環くんの言葉を背中越しで受け取る。
外に出ると、陽が落ち始めていた。店に来た時よりも気温が下がっているように思われる。私はジャケットの襟を立てた。暖かい春が来るのはもう少し先のようだ。
私は自転車に跨り、一漕ぎ目を大きく踏み出した。
「さて、次は何を書こうか…」
思考を飛び越えて、ついそんな言葉が出た。
やはり私の欲は、まだまだ尽きそうにないのである。