散文50『報告』
「センパイ。一つ、大事な報告が」
打ち合わせの帰り道、ハトソン君から掛けられた声に、私の体はピクリと反応してしまった。
「ほう、何だい?」
「実は、すでに課長には話してあるのですが…」
恐らく先日の課長との話も、その内容の件だったのだろう。
「私、三月いっぱいで退社することになりました」
「…そうか」
やはり、といったところである。これまでも、何人も我が社を退社する人間を見てきた。往々にして、退社を決めた人間の行動はそれまでの日常のそれとは若干ズレが生じるものである。それを周りの人間も何となく感じ取ってしまう。確信は持てなくとも、報告を受けると「あぁ、やっぱりな」と思ってしまうものである。報告する方もまた、暗黙に「知っているとは思いますが」と前置きを含んでいる。
「それは、寂しくなるな」
これは私の本心であった。
我が部署でも退社していった者を何人も見てきたが、然程感傷的になったことは無かった。しかしハトソン君は別だ。私とハトソン君を“親しい仲”と言っていいか分からないが、今まで共に働いてきた者の中で最もしっくりきていた存在だったのかも知れない。
「有給休暇の消化もあって、在籍は三月いっぱいですが出社自体は三月の中頃までです。報告が遅くなってすみませんでした」
「いやいや、構わんよ。そうなると、あと一か月くらいか」
「はい。今まで先輩にはいろいろとお世話になりました」
「いやいや、そんなことは無い。ハトソン君は優秀だったからな」
「そんなことは無いです」
「転職先は決まってるのかい? まぁ、詳しく話す必要はないが。ハトソン君ならどこへ行っても大丈夫だろう」
「一応、決まってます」
「そうか、それは良かった。それじゃあ、あと一か月よろしくな」
「はい、がんばります」
春は別れの季節、なんて表現もあるが今はまだまだ寒い二月。時折吹く風に首を窄めて、寒気によって何となく気が散らされるが、やはりハトソン君との別れは寂しいものである。普段からハトソン君とはそこまで会話が多いわけではないが、無言の時間が何となく寂しさを助長する。それをありきたりな言葉で埋めることは簡単であるが、恐らくそれは私もハトソン君も望んではいない。無言の時間、いつもより少しハトソン君のことを考えることが今の最適解なのである。
会社までの道中、結局特に会話は無かった。そのまま会社に入ろうとすると、ハトソン君が急に立ち止まった。
「ん、どうした?」
振り返ると、ハトソン君は頭を下げた。
「あの… ありがとうございました」
「なんだ、改まって」
「社会人になって、センパイにはいろいろなことを教えていただきました。こうして退社を決めたことも、センパイとの出会いがあったからで…」
「あれ、何か悪いことでもした?」
「いえ、そういう意味ではなく。前向きな意味で」
「そうか」
それは良かった。
「ですので、もしよければ今後も是非… いえ、すみません。やっぱりなんでもありません」
そう言うと、ハトソン君は顔を赤らめた。珍しい表情と態度に私も困惑した。「是非」の続きが気になったが、そんなことを追求しても野暮である。
「ま、まぁ。まだ一か月あるわけだし、しみじみした話はまだいいじゃないか」
「そう… ですね。すみません」
「さぁさぁ、さっさと打ち合わせ内容をまとめて課長に報告しよう。まだまだハトソン君の力が必要だ」
「分かりました。任せてください」
その返事はいつものハトソン君のようであった。やはりハトソン君はいつも通りが良い。
私は少しホッとして踵を返した。すると勢い余って、開き切る自動ドアにぶつかりそうになった。
「ハハハ、危ない危ない」
振り返ると、温かでも冷ややかでもない視線を私に向けるハトソン君がいた。ハトソン君が辞めてしまうことはやはり寂しいことではあるが、今はまだ、この視線が心地良いのである。
私は自動ドアが開き切ったことを確認して、改めて颯爽と社内に入っていった。