夜がな夜っぴて考え事…

趣味で自由に小説書いてます

散文24『偶然の再々会』

 私は再び楽器屋の前に立ってた。目的はもちろん、楽器の購入検討を進めるべく、である。

 とはいえ、まずは楽器に触れてみないことには分からない。前回店に来た際に、メガネ屋の店員こと佐久間さんが教えてくれた、試奏とやらを試してみようじゃないか。試奏を試す… おっと、これでは重言ではないか。と、そんなこと今はどうでも良い。いざ入店。

 いろいろと考えた結果、まずは佐久間さんがお勧めしてくれたクラリネットを試してみようと思っていた。店の中には先日同様、お客がたくさんいた。入り口付近には割と若い子たちが通路に屈んだりして、熱心に楽器を見ている。私はその人たちとギターやドラムセットの間をすり抜け、店の奥へと進んでいった。すると、私の目に思いがけない光景が飛び込んできた。なんと、私が目的地としていた場所に、佐久間さんの姿があるではないか。何やら店員らしき人物と立ち話をしている。私が静かに近づくと、気配を感じ取ったのか、店員が私のほうを向いた。それに合わせて佐久間さんも私に顔を向ける。私は思わず立ち止まった。

「あ!」と声を上げたのは佐久間さんだった。

「あ、どうも」と平静を装いながら私は返事をした。

「また、会いましたね」

 ニコリと笑う佐久間さんはとても可愛らしかった。どちらかと言うと、店で会った時よりも、この前の別れ際で見せた笑顔に近い。あどけない印象を受ける笑顔だ。

「カナちゃんの知り合い?」

 隣にいた女性店員が佐久間さんに話しかけた。どうやら彼女の名前はカナと言うらしい。

「はい、うちのお客さんで」

 見たところ、先日佐久間さんが言っていた、転職した先輩というのがこの店員のようだ。私は店員に向かって会釈した。

「やってみたい楽器は決まりましたか?」

「えぇ。決まったというか、一度試してみようかと思いまして。その、試奏と言うんですか」

「あぁ、試奏ですね。いいですね」

 そう言って佐久間さんは胸の前でポンと手を叩いた。

「試奏ですか?」

 隣の店員はここぞとばかりに会話に入ってきた。

「えぇ。今日はクラリネットを試してみたくて。試奏って出来ますか?」

「はい、大丈夫ですよ。今試奏用の楽器を持ってきますね」

 店員はそう言うと、そそくさと店の奥に行ってしまった。

 思いのほか事がとんとん拍子で進んでしまいちょっとソワソワしていると、佐久間さんが話しかけてきた。

「東雲さんは楽器やったことないんでしたっけ?」

「あ、はい。音楽系は特に何もやってきていないので」

「でしたら、試奏にお付き合いしましょうか? ちょっとだけなら教えられますよ」

 思いもよらない展開に私は内心焦った。

「いや、でも今日もお忙しいんじゃ」

「今日は仕事休みなんです。特に後の予定もないんで、もし良かったらですけど」

「はぁ。それならぜひ」

 かくして、私は佐久間さんとともに試奏室に入ることになったのである。

 

 試奏室は意外と狭かった。部屋の大きさは二畳くらいだろうか。簡易テーブルと椅子が二脚あって、二人で入ると窮屈な印象を受けた。

 佐久間さんは入るや否や、さっそく楽器をケースから取り出し、カチャカチャと組み立て始めた。

「佐久間さんはクラリネットをやってたんですか?」

 私が話かけると、返事がワンテンポ遅れた。

「いえ、私はトランペットだったんですけど、友達のを借りて何度か遊んだことがあるんで、基本的な運指くらいだったら教えられます… よっと」

 どうやら楽器が組み上がったらしい。

「はい、どうぞ」

 と手渡されてもどうやって持つべきものなのか。とりあえず受け取って、楽器をグルグルと回してみた。

「右手の親指をここに引っ掛けるんです」

 そう言って佐久間さんは楽器のとある部分を指さした。確かにそこには指を掛けられるところがあった。私は言われるがまま親指を引っ掛け、何となく楽器を構えてみた。

「そんな感じです。いいですねぇ」

 胸の前で手をぱちぱちと叩く佐久間さんの表情は笑顔である。

 そしてそこから、佐久間さんによるレクチャーが始まった。

 

 滞在時間はおよそ30分。その間、佐久間さんの熱心な指導は途切れることなく、私はついていくのがやっとだった。いや、ついていけてなかった。何せ初心者なのだから。

 どうやら佐久間さんは自分が興味あることや好きなことには夢中になるタイプのようだ。正直、部屋に入る前は、狭い部屋に女性と二人きりなんてどうしよう、と少なからずドキドキしていた私だったが、彼女からそんな雰囲気は全く出ていなかった。どちらかと言うと、私のことを男性として意識するよりも、“自分が好きなモノに興味思った人間(私)を自分側の世界に引きずり込みたい”という念が勝っていたように思える。よほど音楽が好きなのだろう。30分間、ほとんど雑談もなく、私は言われるがまま指を動かし、それに対して佐久間さんが「そうです」「違います」「こうです」とコメントするばかりであった。

 それに対しては、逆に好感が持てた。むしろ少しばかりではあるが余計な期待をしてしまった自分が申し訳ないくらいであるが…

 それよりなにより、親指が物凄く痛い。口の中(主に下唇の内側←リードを噛むように構えていたせい)が痛い。そして、運指がめちゃくちゃ難しい。低い『ド』から始まり、『ラ』までは簡単だったのだが、『シ』と高い『ド』の運指が全く出来なかった。リコーダーに似ているのかと思っていたが、クラリネットの難易度はリコーダーの比ではなかった。そして、私の心は静かに折れた。

 部屋を出て、借りていた楽器を返して戻ってきた佐久間さんは、満足げな表情だった。

「どうでしたか?」

「いやぁ、想像以上に難しくて」

「そうですか? センスあるように見えましたよ」

「本当ですか? 佐久間さんの教え方が上手かったから」

「そんなぁ」と照れる佐久間さんを横目に、私は空笑いしていた。

「他の楽器も触ってみます?」

 目を輝かせている佐久間さんには申し訳ないが、今日のところはもう勘弁願いたい。

「あ、いや。今日はこれくらいにしておきます」

 佐久間さんは少し残念そうな顔を見せたが、それは一瞬だった。

「それじゃ、今度また他の楽器をやってみたくなったら… あそこの店員さんに声かけてみてください。あの人、私の先輩なので」

 佐久間さんは後ろを振り向き、視線の先の人物を指さした。そこには先ほど一緒にいた店員の姿があった。

「分かりました。ありがとうございます」

 と、一応礼の言葉を述べたが、多分しばらくこの店に足を運ぶことは無いだろう、と私は心の中で思った。私は密かに打ちひしがれていたのである。

 そう、今の時点で私の中の“クラリネットを吹く自分”の姿は、もうすでに見る影もなかったのである。