散文25『WIN-WIN』
あのあと…とは楽器屋で佐久間さんと会った日のことだが、我々は簡単な雑談をして、私のほうが先に店を出た。私の心の中では、楽器購入に関しては無期限の検討期間に入った。佐久間さんには申し訳ないが、まず楽器の難しさに私の心が折れてしまったのが大きい。楽観視していた私も悪いのだが、それ以上に難しかった。小学校で触れていたリコーダーやピアニカなどと同等の考えでいたことが間違いだった。それに、体に痛みが伴うとは予想外。もちろんやっているうちに慣れてくるのだろうが、特に強制力もなく、ふらっと楽器を始めようかなと考えていた私にはちょっと耐え難い痛みであった。初日であの程度とは、次にまた手にするのが億劫になるのは間違いない。そしてだんだんと楽器を手にする回数が減って、部屋の隅に追いやられていくのが目に見えている。
私にもいろいろやることがあるし、練習する時間もたくさん設けられるわけではない。それに思いのほか音も大きく、部屋での練習は気を使いそうだ。そんな状態で大金を払う余裕があるわけでもない。
と、散々諦める理由を語らせてもらって、楽器に関しては一旦寝かせることにしたのである。
とある平日、私は仕事の休憩時間に楽器屋での出来事をザックリとハトソン君に説明した。
「かくかくしかじか… でな」
「そうでしたか」
「音楽を甘く見ていたよ。やはりあぁいうのは小さい頃から触れておくものだな。大人になってからでは腰も重たくなってくるし、そればかりに時間を割くわけにもいかないからな。学生のうちに思いっきり打ち込むのがいいんだろうな」
「そうですね。私がお世話になっていた楽団も、大人の参加者はみな学生時代からの経験者ばかりでしたから。例えば本気でバンドなり楽団を結成してライブや演奏会をするとか、何かしらの目標がないと始めることすら勇気が必要だと思います」
「だよなぁ」
「私が言うのも失礼かと思いますが、むやみに購入しなかっただけ英断だったのではないでしょうか」
「確かにな。そう言ってもらえると少し心が救われる気がするよ。何だか試奏までさせてもらって申し訳ないんだがな。佐久間さんにも付き合ってもらって」
「あぁそのことなら心配しなくても大丈夫ですよ。そういうの気にしないタイプなので」
ん? 何だその言いっぷり。まるでハトソン君と佐久間さんが知り合いのような…
「そろそろネタバレの頃かと思いますので白状しますと、センパイが出会ったメガネ屋の店員と言うのは私の姉です。佐久間カナ、旧姓は鳩村です」
ま、まさか姉妹だったとは。二人の関係については何かしらあるのではないかと感じていたが、そこまで強い関係性だったとは。
確かに、そう言われれば合点がいくことが多々ある。ハトソン君が語った姉の性格、トランペットの経験者、ハトソン君が私のメガネに気付いたこと、メガネ屋の店員が女性だと言い切った点。そして思い出されるのは先日のハトソン君の、口角が僅かに上がったあの表情。
「それは事実かい? また私をからかっているだけとか…」
「大丈夫です。事実ですよ」
何が大丈夫かはよく分からなかったが、モヤモヤしてたことが一つ晴れたと同時に、新たに一つ疑問が生じた。
「ということは、私と佐久間さんとの間の出来事は全てハトソン君に筒抜けだったと?」
そこでハトソン君は先日と同じ表情を見せた。
「それはどうでしょう。始めはたまたま姉のほうから、『同じメガネを買っていったお客さんがいた』という話を受けたので、いろいろ話を深堀していったらもしかしてセンパイでは? となっただけで、メガネの指摘もとりあえず言ってみただけです。そうしたらセンパイの反応があからさまだったので、そこで確信しました。それ以降も特に私から姉に先輩の情報を聞いたことはありませんよ。姉はおしゃべりなので… と言ってもそういうお客さんの個人情報は私にしか話しませんけど。その辺はわきまえているのでしょう。私は誰にも言いふらしたりしませんから」
私としても誰かにバレたらマズいようなことはしていないわけだが、何となく居心地が悪い。
そんな私の心情を汲み取ったのか、ハトソン君は言葉を続けた。
「それに… 楽器屋での話を聞いたときにちゃんと言っておきました。その人は会社の先輩だと。そう言えば姉も何となく察するので、今後不用意にセンパイの情報をベラベラと話すことは無いと思います。悪気は無いので、許してやってください」
「いや、許すも何も、知られてまずいことは無いんだが。まぁお互いの関係に支障が無い程度にな」
「分かりました。伝えておきます」
「しかし仲がいいんだな。ハトソン君とお姉さんは。連絡とかよく取り合っているのかい?」
「大半は姉から連絡が来ます。もともとおしゃべりなので、日常であった面白いこととか、旦那さんの愚痴とか、何かあれば不定期に。悪気が無い分、無邪気に話してくるので時々際どいことも話してきたりもしますが、姉なりに気を使っているようなので大きなトラブルは無いですね。話し相手は私ですし」
「なるほど。確かにハトソン君なら安心そうだ。お姉さんにとっては最高の話し相手だな」
「そうですね。私もいろいろな話を聞けて楽しいですし」
「WIN-WINだな」
「はい」
姉妹の関係は良好だということも、どうやら本当のようだ。
しかし、あの佐久間さんがハトソン君の姉だったとは、世間は狭すぎる。環くんといい、佐久間さんといい、何やら私の周りの人間関係は狭すぎるようだ。気を付けなければ、私の言動が誰に通じているかも分からない。私は改めて日々の行いを戒めた。
「佐久間というのは旦那さんの姓かい?」
「はい」
「そうか。もし『鳩村』だったらすぐに気が付いたんだがな」
「そうそういませんからね、この苗字は」
「姉妹とはいえ、性格の違いもあるのか見た目では気が付かなかったな。確かにハトソン君の言う通り、正反対の性格のようだな。あ、深い意味は無いぞ」
「大丈夫です。誰からも似ていると言われたことは無いですから。気にもしていません」
「そうか、まぁそうだな。気にすることでもないか」
「性格が正反対だからこそのWIN-WINですから」
そう言いながらハトソン君は満足げに大きく一回だけ頷いた。
「あ、そういえば…」
「ん、何だい?」
「姉が言ってました。東雲さんっていうお客さんが音楽に興味持ちそうだったのに、自分の説明が下手で音楽の魅力を伝えきれなかったって。その時は少し悲しげだったような…」
「えぇ、それ今言っちゃう??」
と、うまいことにそこでチャイムが鳴る。机に向き直すハトソン君。そして取り残された私。
むむむ… それを言われると何だか申し訳ない気持ちがぶり返してくるではないか。これはハトソン君にやられた。
私はまんまとモヤモヤしたまま仕事を再開することになった。