夜がな夜っぴて考え事…

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散文NEO-3『春』

 昨日まで雨が続いていたが、今日は久しぶりに晴れた。日曜日ということもあり朝から気分が良い。ということで私はランニングに出掛けることにした。

 

 この春の異動に伴い、私は住み慣れた街を離れ、S市から二駅ほど離れた街に引っ越していた。とはいえ初めての土地ではなく、実は学生時代にこの辺の学校に通っていたこともあり、記憶にある風景もちらほらある。多少の土地勘があったため、そこまで新しい生活のスタートに対して躓くことは無かった。引っ越し作業もほぼ終え、部屋も整理が終わったので、晴れ間を利用してランニングといった次第である。

 部屋を出てとりあえず知った道を走っていこうと駆け出していったが、学生時代にバスで通っていた道を改めて人の目線で見渡してみると案外新鮮に見えるものである。バスに乗っていたときはどちらかというと遠くに目線を送ることが多かったが、人目線だと近くのものに視線が向く。足元に咲き始めた花や小さな子供と手をつないで歩く親子、そして何より新鮮だったのは音である。近くの家からは大きな声で家族を呼ぶ声が私の耳にも届いてくるし、遠くのほうからは部活動であろう学生たちの声やホイッスルの音、風に揺れる葉音など、街は音に溢れている。部屋を出た瞬間、イヤホンを忘れたことに気付いて取りに戻ろうかと思ったが、これならイヤホンなどいらず、退屈せずにランニングを楽しむことが出来る。

 

 しばらく進んだところで、私は目の前の信号が赤になったことを利用して走るのをやめ、そこからは歩くことにした。特別な理由は無い。ただ体力が尽きただけの話である。所詮デスクワークが主のサラリーマンである。運動不足に加え、自重の増加により想定内の範囲で限界を迎えたまで。走りをやめたことに罪悪感や悔しさもない。よく頑張ったと褒めてもいいくらいであろう。

 信号が青になり、横断歩道を渡り切ると高校のグラウンドが見えた。歩道のほうが高い位置にあるため、グラウンド全体を上から見渡せる位置関係であった。グラウンドには誰もいない。散りかけの桜が風に揺れているだけだった。私は何となく歩みを止めた。そのグラウンドはどこか寂しげに見えた。人が一人もいないというだけでなく、何となく寂しい雰囲気が漂っているように感じた。一か月前に三年生がこの高校に別れを告げて、ついこの前、新しい一年生が期待と不安を胸にこの高校に入ってきた。春というのは人の感情が不安定に揺れ動く、そういう季節だからかも知れない。何だか空気が落ち着かない気がしたのである。自分もまたそういう状況であるからかも知れない。もう少しすればみんな新しい環境に慣れ、空気も落ち着いてくるであろう。

 少しセンチメンタルな気分に浸っていたとき、私の頭にふと『喫茶ネロ』が浮かんだ。そういえば新年の挨拶がてら年初めに店を訪れ、今回の異動を報告して以来、そのままあの街を離れてしまっていた。引っ越しの準備・後片付けと、異動後も仕事の整理で毎日バタバタしていたせいもあって、ちゃんと挨拶をして来なかったことをここで思い出した。よし、今度行ってみよう。春になったら新作のケーキを出すと言っていたし、それも楽しみである。

 冷静になって考えれば、今更「もう引っ越しました」と事後報告しようものなら、ハトソン君からなんて言葉を掛けられるか、少々億劫な部分はあるが、その億劫さを払っても余るくらいの期待が新作のケーキに対して湧いているのだから問題ない。『喫茶ネロ』で出す季節ごとのケーキはそれだけの価値がある。何せ『喫茶ネロ』のバックにはあの魔女がいるのである。間違いはない。

 私は再び歩き出した。体力的にもう走るのは止めよう。このまま徒歩で帰宅である。

 ゆっくり景色を見ながら歩いていると、散っていく桜の花びらが丁度私の目の前を横切っていった。もしかしたら新作ケーキは桜をモチーフにしていたりするのだろうか。そんなこと考えながら、私の心は小躍りしていた。